治療不能記録の奥 2
副院長エドヴィン・ラウシュは、穏やかな笑みを浮かべる男だった。
年齢は五十代半ば。白髪混じりの髪を整え、治療師というより王宮官僚に近い雰囲気を持っている。
「魔術院のお二人が、わざわざ古い症例記録を?」
応接室に通されたライヘルたちへ、ラウシュは柔らかく言った。
「二年前の騎士団関連症例についてです」
ライヘルは座らずに答えた。
「エリオット・バーンスタンの治療不能記録。そして同時期に治療院検査室へ入った外部封印検体の記録を確認したい」
「治療不能症例の記録は、患者保護のため封印されることがあります」
「患者保護のためなら、封印理由と閲覧権限の記録が残るはずです」
ライヘルの声は冷静だった。
「この件では、封印指定の理由欄が不自然に薄い」
ラウシュの笑みは崩れない。
「古い手続きですからね。記録様式も今とは異なります」
「様式の問題ではありません」
オルガが資料を一枚置いた。
「押収品七点。分類、瘴気封入触媒。王立魔術院付属保管庫へ移送予定。ですが魔術院側には保管記録がありません。そのうち一点が、被害者治療のための症例研究名目で治療院検査室に回された形跡があります」
ラウシュは資料へ視線を落とした。
「物々しい話ですな」
「物々しいだけで済めばよかったのですが」
ライヘルは言った。
「その封印検体が、患者を救うために使われたのか。それとも患者を研究対象として閉じ込めるために使われたのか。確認が必要です」
応接室の空気が、わずかに硬くなる。
その時、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、マルグリット・ヴェインだった。
濃い栗色の髪を低くまとめた、落ち着いた雰囲気の女性。白衣の着こなしに隙はなく、年齢は四十前後に見える。
王都中央治療院の上級治療師。
検査室にも長く関わってきた、実績ある治療師。
そして、Mの押印痕の候補。
「コックス研究員、フェンネル研究員。お話は少し伺いました」
マルグリットは穏やかに礼をした。
「二年前の症例研究について、ですね」
ライヘルは彼女を見る。
「ヴェイン治療師。あなたは当時、検査室にいましたね」
「ええ。多くの症例を担当していました」
「外部封印検体の受領に関わりましたか」
問いはまっすぐだった。
マルグリットは少しだけ目を伏せる。
「治療院には、さまざまな検体が運び込まれます。毒、瘴気、魔獣由来の傷、騎士団からの特殊症例。すべてを個別に覚えているわけではありません」
「覚えていないのですか。答えられないのですか」
ライヘルの声がわずかに低くなった。
オルガが横目で彼を見る。
マルグリットは動じなかった。
「研究者であるなら、ご存じでしょう。治療不能症例を研究することは、未来の患者を救うために必要です」
「患者本人の同意なく?」
「本人の意思確認が困難な場合、治療院判断が入ることもあります」
「記録を封じ、閲覧を制限し、外部検体の処分記録を消しても?」
マルグリットの目が、初めてライヘルを正面から見た。
「コックス研究員。あなたは妹君の件で、感情的になっているのではありませんか」
オルガの表情が冷えた。
ライヘルは一瞬、沈黙した。
そして、静かに言った。
「感情はあります」
マルグリットは口を開きかけた。
だが、ライヘルは続けた。
「ですが、記録の欠落は感情ではありません。押収品の移送先不明も、治療不能記録の封印指定も、外部封印検体の処分記録不在も、すべて事実です」
彼は机の上の書類へ視線を落とした。
「患者を守るための封印ではない」
声は静かだった。
「患者を見えなくするための封印です」
マルグリットの表情から、ほんのわずかに温度が消えた。
記録管理室へ戻った後、ドミニクはしぶしぶ古い受領簿を出した。
すべてではない。
必要最低限。
だが、そこには確かに残っていた。
外部症例研究素材。
封印検体一点。
受領先、治療院検査室。
目的、被害者治療のための症例研究。
受領印、欠け。
オルガは拡大鏡を使って押印痕を見た。
「M……Vにも見えるね」
ライヘルは隣の欄を確認する。
「処分記録がありません」
「ええ。搬入記録はある。研究室への移管記録もある。でも廃棄、返却、封印保管の記録がない」
オルガの声が低くなる。
「消えたのは木箱だけじゃない。治療院に来た一点も、その後また消えている」
その時、廊下の向こうで若い治療助手がこちらを見ていることに、ライヘルは気づいた。
目が合うと、相手は慌てて視線を逸らす。
ドミニクが鋭く言った。
「ニコラ。何をしている」
若い助手――ニコラ・エーベルは、手にした薬瓶を抱え直した。
「すみません。薬品棚の補充を」
声が震えている。
オルガが柔らかく声をかけた。
「二年前、あなたは検査室に?」
ニコラは顔色を変えた。
「……見習いでした」
「夜間に封印箱が運び込まれたことを覚えている?」
ニコラの唇が動いた。
だが、答える前にドミニクが咳払いをした。
「フェンネル研究員。見習いの記憶など、正式記録にはなりません」
「正式記録にならないものが、真実でないとは限らないよ」
オルガは静かに返した。
ニコラは何か言いたげにライヘルを見た。
しかし、すぐに頭を下げて去っていく。
その背中を、マルグリットが廊下の向こうから見ていた。
治療院を出た時、王都の空は夜に沈みかけていた。
ライヘルは無言で歩いていた。
オルガは隣を歩きながら、ため息をつく。
「ヴェインひとりでここまで記録は動かせないね」
「ええ」
「副院長、記録管理官、検査室。少なくとも三箇所に協力者か黙認者がいる」
「治療院の中に、患者を症例として閉じる派閥がある」
ライヘルの声は冷たかった。
「エリオット君は、治療不能と判断されたのではない。治療不能として扱われるよう、記録を閉じられた可能性があります」
「そして、その症例はセヴラン側にとって貴重だった」
ライヘルは立ち止まった。
王都中央治療院の白い建物を振り返る。
そこは人を救う場所のはずだった。
けれど、その白い壁の奥で、誰かが患者を見えなくしている。
「ニコラ・エーベルに接触しましょう」
ライヘルは言った。
「ただし、急がない。彼が消される」
「うん。まずはヘルムート副官に共有。記録と人の保護を先に組むべきだね」
オルガは頷いた。
その夜、王都中央治療院の一室で、マルグリットは短い書状を書いていた。
字は美しい。
内容は簡潔だった。
――コックス研究員とフェンネル研究員が、二年前の検査室記録を確認。
――外部封印検体、M.V.押印痕、処分記録不在に言及。
――若手助手ニコラ・エーベルが動揺。注意を要す。
宛名は書かない。
ただ、封蝋には治療院の公印ではない、小さな灰色の印が押された。
それは医療の印ではなかった。
研究と政治のあいだを通る、細い裏道の印だった。
マルグリットは封を閉じ、静かに灯りを消した。




