治療不能記録の奥 1
エルネストが王都へ 戻ったのは、夏灯祭から四日目の夕刻だった。
早馬を乗り継ぎ、眠りも食事も削ったせいで、外套には埃がつき、顔には疲労が濃く出ている。それでも彼の目だけは、異様なほど冴えていた。
王都の空は薄紫に暮れている。
セヴランの研究棟へ向かう石畳を踏みながら、エルネストは胸の内側で何度も報告の要点を繰り返していた。
白花反応。
偽白への非接触。
水流復帰。
そして、白花以外の介入反応。
退役騎士エリオット・バーンスタンの右腕由来と思われる、硬質な外向き反応。
剣性反応。
その言葉を思い浮かべるたび、エルネストの指先は震えた。
これは成果だ。
先生に直接報告すべき成果だ。
セヴランは、いつも通り静かな部屋で報告を受けた。
机の上には黒い紙束と、古い核反応図。そして、王都中央治療院から回された症例封印記録の写しが置かれている。
エルネストは深く頭を下げ、記録盤と報告書を差し出した。
「エルダント夏灯祭での観測結果です。白花反応の誘導には一部成功しました。ただし、対象は偽白へ直接触れず、周囲の水流を復帰させる形で干渉しました」
「直接触れなかった」
セヴランは指先で報告書をめくった。
その声は平坦だった。
エルネストは急いで続ける。
「はい。ですが、その瞬間に別種の反応が割り込みました。白花ではありません。治療師の魔力路とも異なります。硬質で、外向きで、黒系誘導波を拒絶するような――」
「剣性反応」
セヴランが静かに言った。
エルネストの顔が明るくなる。
「はい! 私もそう判断しました。反応源は、エリオット・バーンスタンの右腕と推定されます。偽白が白花へ近づいた瞬間、騎士の右腕が反応した可能性が高いです」
セヴランは記録盤を確認した。
ほんの一瞬、黒い誘導波が歪んでいる。
白花の柔らかな復帰反応ではない。
もっと鋭い。
もっと硬い。
黒い流れを押し返すために生まれたような線。
セヴランの目が、わずかに細くなった。
二年前。
沈めたはずの右腕。
閉じたはずの魔力路。
二度と剣を握れぬよう、壊さず、殺さず、きれいに封じたもの。
それが、白花のそばで戻り始めている。
「興味深い観測です」
セヴランはそう言った。
エルネストは息を呑み、喜びを隠しきれない顔をした。
「先生……!」
「ですが、エルネスト」
その声の温度が、わずかに下がる。
エルネストの背筋が伸びた。
「あなたは白花を測ろうとして、剣を起こしかけました」
室内の空気が冷えた。
「剣を……」
「ええ。あの騎士の右腕は、ただの負傷部位ではありません。二年前に沈めたものです。刺激の仕方を誤れば、観測対象は観測できる状態ではなくなる」
エルネストの唇が震えた。
「申し訳、ありません」
「謝罪は不要です。観測結果は有用でした。けれど、次からは目的を誤らないことです」
セヴランは報告書を閉じた。
「次はカーヴェルです」
「カーヴェル……坑道下の集落ですね」
「白花と騎士は、いずれそこへ向かうでしょう。あの場所には、観測に足る条件があります」
エルネストの目に、また熱が戻る。
「では、私が」
「行きなさい。白花が村の水と土にどう触れるか。騎士の右腕が核にどこまで反応するか。記録しなさい」
セヴランはそこで一度言葉を切った。
「ただし、核を失ってはなりません」
エルネストは息を止めた。
「……回収、ですか」
「必要なら」
セヴランの声は静かだった。
「白花と騎士の影響を受けた核は、研究価値が変わります。観測するために必要なものですが、彼らに渡してよいものではありません。末端に任せるには危険が大きい」
「承知しました」
エルネストは深く頭を下げた。
任された。
先生が、自分に。
その感情が胸を満たす。
セヴランは、そんな彼を見ていた。
使える駒だ。
ただし、熱を持ちすぎる。
だが今は、その熱も利用できる。
「エルネスト」
「はい」
「今度は、剣を起こすためではなく、剣がどこまで起きているかを測るのです」
「はい。必ず」
エルネストは、ほとんど誓うように答えた。
同じ頃、王都中央治療院では、別の扉が開こうとしていた。
ライヘルとオルガが訪れたのは、治療院本館の東棟にある記録管理室だった。
王都中央治療院。
王族、貴族、騎士団、市民まで診る、国内でも有数の大治療院である。白い石造りの廊下は清潔で、薬草と消毒水の匂いが薄く漂っていた。
だが、ライヘルにはその白さがひどく冷たく見えた。
応対に出たのは、記録管理官のドミニク・アレンだった。
痩せた中年の男で、眼鏡の奥の目は油断なく二人を見ている。
「コックス研究員、フェンネル研究員。魔術院からの照会ということですが」
「二年前の外部症例研究素材について確認したい」
ライヘルは淡々と言った。
「南西辺境討伐任務後、治療院検査室へ回された可能性がある封印検体です」
ドミニクの表情は動かなかった。
だが、指先がわずかに帳簿の角を押さえた。
「古い記録ですな」
「ええ。だから確認が必要です」
オルガが穏やかに続ける。
「押収品七点のうち少なくとも一点が、被害者治療のための症例研究名目でこちらへ入った形跡があります。受領欄の押印痕は欠けていますが、頭文字はMに見えました」
「欠けた押印を根拠に、治療院へ?」
「欠けた押印だけなら来ません」
オルガはにこりともせず答えた。
「同時期に、エリオット・バーンスタンの治療不能記録が封印指定されています。さらに、その封印指定と押収品分類記録の周辺に、同じ研究筋の影がある」
ドミニクは沈黙した。
やがて、棚の奥から一冊の古い受領簿を取り出す。
「閲覧許可は副院長の承認が必要です」
「では副院長へ」
ライヘルが即答する。
ドミニクはわずかに眉を寄せた。




