宿場町の夜 1
荷馬車の旅は、ミラが思っていたよりもよく揺れた。
村を出たばかりの道はまだ整っていた。
畑の間を抜け、白い花の咲く細道を通り、森の縁をなぞるようにして進む間、荷馬車の車輪は比較的穏やかに土を踏んでいた。
だが村から離れるにつれ、道は少しずつ荒くなっていく。
小石を踏めば荷台が跳ねる。
ぬかるみの跡を避ければ、車体が傾く。
荷台の隅に積まれた麻袋が、揺れに合わせてずるりと動く。
ミラはそのたびに、隣に座るエリオット・バーンスタンの右腕へ目を向けた。
エリオットは右腕を身体の横に添え、布で軽く固定している。吊ってはいない。長く吊ると肩に負担がかかるため、ミラが避けたのだ。
ただし、揺れが大きい時に腕が振られないよう、胸元から細い布で支えていた。
それでも、馬車が大きく跳ねるたび、エリオットの眉がわずかに動く。
「痛みは?」
ミラは何度目か分からない確認をした。
エリオットは村から遠ざかる景色を見ていた視線を戻し、淡々と答える。
「二。時々三」
「熱は?」
「まだない」
「痺れは?」
「指先に少し。朝と変わらない」
「気分は?」
「悪くない」
「本当に?」
「本当に」
ミラは帳面を開き、揺れる荷台の上で記録を書いた。
――出立初日。馬車移動。揺れにより右腕痛み二〜三。熱感なし。痺れ変化なし。気分不快なし。
筆先が揺れて、文字が少し歪む。
それを横から見たエリオットが、かすかに口元を動かした。
「字が曲がっている」
「馬車のせいです」
「俺の記録にしては、少し雑だな」
「では、次からエリオットさんが書きますか?」
「左手で?」
「練習にはなります」
「……君は本気で言っているな」
「治療師なので」
「便利な言葉だ」
最近、エリオットはその言葉をよく使う。
ミラはそれがおかしくて、少しだけ笑った。
村を出てから、エリオットは思っていたよりも落ち着いていた。
もっと黙り込むかもしれないと思っていた。
遠ざかる故郷を振り返り続けるかもしれないとも思っていた。
けれど彼は、村が見えなくなった後、ただ前を向いて座っている。
その横顔には寂しさもある。
不安もある。
それでも、閉じこもっていた頃のような重さはなかった。
ミラは、その変化が嬉しかった。
そして少しだけ、怖くもあった。
旅はまだ始まったばかりだ。
この先に何があるのか、分からない。
王都で兄が何を見つけたのか。
エリオットの腕に残る瘴気が、この先どう変化するのか。
守護騎士という伝承が、彼に何を求めるのか。
何も分からない。
それでも、荷馬車は進んでいく。
村を出た以上、もう前へ進むしかないのだ。
*
昼前になると、荷馬車は小さな林の手前で一度止まった。
馬に水を飲ませるためだった。
御者を務める農夫のハンスは、荷台の後ろを軽く叩いた。
「ここで少し休むよ。道の先は坂になるから、その前に馬を休ませたい」
「分かりました」
ミラは礼を言い、先に荷台から降りた。
続いてエリオットが降りようとする。
左手で荷台の縁を掴み、足を下ろす。
右腕を使わない分、動きは慎重だ。
ミラはすぐそばに立った。
「手を貸しましょうか」
「大丈夫だ」
「無理は」
「していない」
エリオットはそう言って、ゆっくり地面に降りた。
降りた瞬間、わずかに体が揺れる。
ミラが反射的に手を伸ばすより先に、エリオットは杖で身体を支えた。
「……大丈夫だ」
今度の声には、ほんの少し悔しさが混じっていた。
ミラは彼の顔ではなく、足元と肩の位置を見た。
「左足に少し力が偏っています」
「そこまで見るのか」
「見ます」
「歩くだけでも記録されるのは落ち着かないな」
「旅の間は全身状態を見ます」
「本当に全身を診るつもりだったのか」
「必要なら」
エリオットは小さく息を吐いた。
だが、嫌がっているわけではないようだった。
ミラは木陰に腰を下ろすよう指示し、右腕の状態を確認した。包帯の上から触れると、少し熱を持ち始めている。
「熱が上がっています」
「坂道前で降りただけだ」
「降りる動作でも負担はかかります」
「……三」
「痛みですか?」
「ああ。三になった」
自分から言った。
ミラは思わず顔を上げる。
「何だ」
「いえ。報告が早くなりました」
「言わなければ君が聞く」
「素晴らしい学習です」
「だから子ども扱いをするな」
文句を言いながらも、エリオットは右腕を差し出した。
ミラは祠の泉の水をほんの一滴だけ布に落とし、手首の内側に当てる。
白花の小袋も添えると、護符が淡く光った。
黒い瘴気の反応は強くない。
白い刃の光も、今日は静かだった。
「すぐ落ち着きそうです」
「泉の水は、使ってよかったのか」
「一滴だけです。必要な範囲です」
「俺がもう少しうまく降りれば、使わずに済んだ」
「そういう考え方はやめてください」
ミラは少し強めに言った。
エリオットが黙る。
「必要な時に必要な処置をするために持ってきています。使ったことを負担だと思わないでください」
「……そうか」
「そうです」
「分かった」
エリオットは右手首の布を見下ろした。
「君は、患者が勝手に悪く考える前に止めるな」
「悪く考える患者さんがいるので」
「俺のことか」
「はい」
あまりに迷いなく答えたため、エリオットは少しだけ目を見開いた。
それから、低く笑った。
本当に小さな笑いだった。
ミラは驚いて彼を見る。
「何だ」
「いえ……笑ったので」
「俺も笑うことくらいある」
「そうですね」
以前なら、こんなふうに返せなかったかもしれない。
エリオットが笑う。
ミラも少し笑う。
ただそれだけのことが、旅の道の途中では不思議なほど大切に思えた。
*
馬を休ませた後、坂道に差しかかった。
荷を積んだ馬車には少しきつい坂だったため、ハンスは荷を軽くするために歩ける者は少し歩いてくれると助かると言った。
エリオットはすぐに立ち上がった。
「歩ける」
ミラは彼を見た。
「距離を決めます」
「坂を登りきるまででいいだろう」
「いけません。あの樫の木までです」
ミラが指差したのは、坂の中腹に立つ大きな樫の木だった。
エリオットはその木を見上げる。
「近い」
「坂道なので十分です」
「荷馬車にはすぐ追いつかれる」
「追いつかれたら乗ります」
「……分かった」
また少し不満そうだったが、従った。
二人は荷馬車の横を歩いた。
ハンスが御者台からちらりと見て、笑った。
「エリオット、お前さん、ミラさんには逆らわない方がいいな」
「分かっている」
「昔はもっと頑固だったのにな」
「今も頑固です」
ミラが言うと、ハンスは声を上げて笑った。
エリオットは少しだけ眉を寄せた。
「そこは否定してくれてもいいだろう」
「正確な評価です」
「治療師は厳しいな」
坂道を歩く間、ミラはエリオットの顔色と歩幅を見ていた。
右腕は揺れないよう固定している。
左手には杖。
歩行は安定しているが、坂の途中で呼吸がやや深くなった。
「痛みは?」
「三」
「熱は?」
「少し」
「樫の木で止まります」
「分かっている」
樫の木まで来ると、ミラはすぐに止まった。
エリオットも止まる。
だが彼の目は坂の上を見ていた。
このまま登りきりたいのだろう。
ミラには分かった。
けれど、彼は何も言わなかった。
ただ、視線を坂の上から外し、荷馬車が来るのを待った。
その横顔を見て、ミラは胸の奥がじんわりと温かくなる。
無理をしない。
言葉にすると簡単だ。
だがエリオットにとっては、とても難しいことだったはずだ。
彼はずっと、痛みに耐え、無理をして、前へ進むことで騎士であろうとしてきた。
その彼が、止まった。
自分で止まることを選んだ。
「……今のも記録します」
「何を」
「樫の木で止まれたことを」
「それは治療記録なのか」
「とても重要です」
「君の記録は、時々おかしい」
「そうでしょうか」
ミラが真面目に首を傾げると、エリオットは困ったような顔をした。
「いや。……もういい」
荷馬車が追いつき、二人は再び荷台に乗った。
エリオットが座る時、ミラは自然に右腕を支えた。
その手に、彼の視線が落ちる。
ミラは気づかなかった。
だがエリオットは、その手の温度をしばらく覚えていた。




