旅立ちの朝 3
出発前の最終確認として、ミラは馬車のそばでエリオットの右腕を診た。
村人たちは少し離れた場所で待ってくれている。
「痛みは?」
「二」
「熱は?」
「ほとんどない」
「指を動かしてください」
エリオットは右手を見下ろし、親指をわずかに曲げた。続いて人差し指。中指。
動きは小さい。
けれど確かだった。
ミラは頷く。
「旅の間は、朝と夕方に必ず診ます。馬車の揺れで熱が上がる可能性があります。痛みが四を超えたらすぐ言ってください」
「ああ」
「荷物は左手でも持ちすぎないこと。杖を使う時は、右腕を庇いすぎて左肩に負担をかけないように」
「ああ」
「途中で歩く時は、私が距離を決めます」
「ああ」
「夜は腕を冷やしすぎないこと。勝手に訓練しないこと。木の枝を見つけても握らないこと」
「……最後のは余計だろう」
「必要です」
「分かった」
エリオットは少しだけ呆れたように息を吐いた。
ミラは帳面を閉じる。
「では、同行可とします」
「治療師の許可が出たわけだ」
「はい」
「厳しい審査だった」
「まだ仮許可です」
「仮なのか」
「道中の様子次第で撤回します」
「……気をつける」
エリオットの声は真面目だった。
以前なら不満を隠さなかっただろう。
けれど今は、自分の身体をきちんと考えようとしている。
ミラはそのことが少し嬉しくて、柔らかく言った。
「それでいいです」
エリオットは彼女を見た。
朝の光の中、彼の灰青色の瞳が穏やかに揺れる。
「ミラ」
「はい」
「ここまで、ありがとう」
不意の言葉だった。
ミラは一瞬、息を止めた。
「まだ、治療は終わっていません」
「分かっている」
「剣も、まだ握れていません」
「ああ」
「だから、お礼を言うには早いです」
そう言うと、エリオットは少しだけ口元を緩めた。
「君ならそう言うと思った」
「分かっているなら、なぜ」
「今の礼だ」
「今の?」
「あの家から、ここまで来られるようにしてくれた礼だ」
ミラは言葉を失った。
エリオットの言う「あの家」が、祖父母の家のことだとすぐに分かった。
二年間、彼が閉じこもっていた場所。
誰にも見せたくない痛みと、諦めを抱えていた場所。
そこから、ここまで。
村の広場まで。
荷馬車の前まで。
旅立ちの朝まで。
ミラの胸が熱くなる。
「……私は、少し手伝っただけです」
「その“少し”を、俺は一人ではできなかった」
エリオットは静かに言った。
「だから、ありがとう」
ミラは視線を落とした。
泣きそうになったわけではない。
たぶん。
ただ、目の奥が少し熱くなっただけだ。
「……どういたしまして」
小さく答える。
それから、少しだけ顔を上げた。
「次は、もう少し先まで行きましょう」
「ああ」
二人が荷馬車に乗ると、村人たちが一斉に手を振った。
「ミラさん、身体に気をつけて!」
「エリオット、無理するなよ!」
「今度帰ってくる時は、もっと腕が動いてるといいな!」
「治療師さん、また来てね!」
声が重なる。
ミラは荷台から何度も頭を下げた。
エリオットは最初、どう応えればいいのか分からないようだった。
だが、やがて左手を小さく上げた。
それだけで、村人たちの声が少し大きくなった。
エリオットは照れたように視線を逸らす。
ミラはその横顔を見て、少しだけ笑った。
「人気者ですね」
「違う」
「皆さん、心配していたんです」
「それは知っている」
「受け取れるようになりましたか」
エリオットは少し黙った。
それから、低く言う。
「少しは」
「それも記録します」
「心の中にか」
「はい」
「やめろと言っただろう」
そんな会話をしているうちに、農夫が手綱を引いた。
馬がゆっくり歩き出す。
荷馬車が軋み、車輪が土を踏む。
村の広場が、少しずつ遠ざかっていく。
エダは最後まで手を振らず、ただ杖をついて立っていた。
村長は深く頷いた。
村人たちはいつまでも声をかけ続けた。
ミラは胸がいっぱいになりながら、その景色を見つめた。
この村に来た時、自分はただ依頼を受けた旅治療師だった。
だが今は、違う。
治癒の女神。
治癒の娘。
守護騎士。
黒い瘴気。
そして、隣に座るエリオット。
この村で始まったことは、もうこの村だけでは終わらない。
荷馬車が村の門代わりの古い木柵を抜ける。
そこでエリオットが振り返った。
祖父母の家の屋根が、遠くに見えた。
祠へ続く森も、白花の咲く道も、少しずつ小さくなっていく。
エリオットは長く、その景色を見ていた。
ミラは何も言わなかった。
やがて彼が、ぽつりと呟く。
「逃げるためじゃない」
ミラは隣を見る。
エリオットは村を見たまま続けた。
「今度は、戻るために出る」
その言葉に、ミラの胸が静かに震えた。
「はい」
彼女は答えた。
「戻れるように、治していきましょう」
エリオットは小さく頷いた。
その時、馬車が少し大きく揺れた。
エリオットの右腕がわずかに動き、彼の眉がぴくりと寄る。
ミラはすぐに気づいた。
「腕、痛みますか?」
「少し」
「どのくらいですか」
「二。いや、三に近い」
「熱は?」
「まだない」
「では、今日最初の記録です」
ミラは鞄から帳面を取り出した。
荷馬車の揺れに合わせて、文字は少しだけ歪む。
――出立初日。荷馬車移動開始。揺れにより右腕痛み二〜三。熱感なし。本人、痛みを自己申告。
書き終えると、エリオットが横から覗き込んだ。
「最後の一文は必要か?」
「とても重要です」
「そうか」
「はい」
エリオットは少しだけ笑った。
その笑みは、ほんのかすかなものだったが、ミラには十分だった。
荷馬車は朝の道を進む。
白い花の咲く村を背にして、二人は次の逗留先へ向かう。
それは、治療の旅だった。
真実を探す旅だった。
そして、失われた剣を取り戻すための旅だった。
ミラは胸元のペンダントに触れ、隣のエリオットの右腕をそっと確認した。
まだ剣は握れない。
けれど、指は動く。
道は、確かに続いている。




