冷たい白の灯籠 3
ミラは運河の水を見た。
偽白の灯籠の周りに、薄い膜のようなものが広がっている。黒ではない。けれど、白でもない。
白い顔をした、乾いたもの。
その膜が、近くの灯籠の流れを鈍らせている。
水がそこだけ、呼吸を忘れたように止まっていた。
「壊したら駄目……」
ミラは小さく呟いた。
黒を引き抜かない。
白を信じすぎない。
冷たく乾いた白は取らない。
対象が本来どこへ流れるべきかを見る。
ライヘルの言葉が、胸の奥でほどける。
ミラは白花をほんの細く灯した。
偽白には触れない。
その周囲の水を見る。
本来の流れ。
上流から下流へ。
灯籠を運び、熱を逃がし、人々の祈りを静かに運ぶ流れ。
そこへ、細い白を通す。
偽白を押し潰すのではなく、周りの水を思い出させるように。
水面が、わずかに揺れた。
止まっていた灯籠が、ゆっくり動き出す。
同時に、エリオットの右腕が強く熱を持った。
「っ……」
彼は息を詰めた。
右手の奥で、黒い封じがざわつく。
だが、それだけではなかった。
手のひらの中心から、白銀の細い線が走る。
痛みではない。
拒絶でもない。
これは、押し返す力だ。
偽りの白がミラへ触れようとした瞬間、右腕の奥がそれを敵として認識した。
守れ。
そう言われた気がした。
エリオットは右手を出さなかった。
補助具の中で指が震えても、動かさない。
剣を握るような感覚が戻りかけても、握らない。
ミラの前へ右腕を出すのではなく、左手と体で彼女の立つ位置を守る。
「ミラ、半歩下がれ」
「はい」
「レオン、子どもを涼み処へ。セリア、灯籠は?」
「回収します。ミラさん、流れを保ってください。灯籠本体には触らないで」
「分かりました」
エリオットは自分の右腕の熱を飲み込みながら、声だけは落ち着かせた。
「右手に熱。手のひらから薬指、小指まで。外向きの反応あり。動作なし」
セリアが一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに記録した。
「封箱、危険時外向き反応。開閉試験なし」
祭りの水面に灯りが揺れる中、彼らはいつも通りに記録した。
それが、罠に呑まれないための支えだった。
小舟に乗った銀環堂の職人が、白石布を張った網で偽白灯籠を水ごと受けた。
灯籠が布に触れた瞬間、反応針が白く曇り、すぐに灰色へ沈む。
セリアが声を上げる。
「偽白確認。封印箱へ。水は捨てないでください。反応が残っています」
イザークが職人たちへ指示を出す。
「流し場を止めたままにしろ。個人灯籠は全部確認台へ戻せ。説明は模造品の混入でいい」
メリッサが涼み処から駆けつけ、ふらついた子どもを診る。
「熱はない。意識も戻っている。ただ、手足が冷えているわ」
「偽白の影響です」
ミラは言った。
「強くはありません。でも、近くで見続けると、体の流れが少し鈍ります」
「病み上がりの人や子どもには危ないわね」
「はい」
子どもの母親は青ざめていたが、ミラが「大丈夫です」と告げると、涙ぐみながら何度も頭を下げた。
ミラはすぐに薬草茶を渡した。
「ゆっくり飲んでください。今日はもう水辺には近づかないで」
子どもは小さく頷いた。
騒ぎは大きくならなかった。
銀環堂が模造灯籠の不具合として流し場を一時停止し、治療院が涼み処で数人の体調確認を行った。祭りの人々は不安げにしながらも、職人たちの指示に従って少しずつ落ち着きを取り戻した。
だが、ミラたちにとっては明らかだった。
これは不具合ではない。
狙われたのだ。
ミラの白花を。
エリオットの右腕を。
祭りの水を。
偽白灯籠は封印箱に収められ、銀環堂へ運ばれることになった。
その途中、エリオットは右腕の熱がまだ消えていないことに気づいた。
手のひらに、はっきりと感覚がある。
布に触れているわけではない。
水に触れたわけでもない。
それなのに、偽白の残り香がどこにあるか分かる。
あれは危険だ。
右手が、そう告げている。
ミラが心配そうに彼を見る。
「エリオットさん、右手は」
「熱が残っている」
「痛みは?」
「少し。だが、それより……」
エリオットは言葉を探した。
「押し返そうとしている感じがある」
ミラの表情が変わる。
セリアも記録板を持ったまま近づいた。
「押し返す?」
「あの偽白がミラに近づくのを、右手が拒んだ。そんな感じだ」
セリアの筆先が止まった。
「回復ではなく、対抗反応……」
ミラは息を呑んだ。
エリオットはすぐに言った。
「動かしていない」
「分かっています」
「本当に」
「分かっています。でも、あとで診ます。必ず」
「分かった」
その返事は、もう迷いがなかった。
運河の向こう、人混みの奥で、エルネストは唇を噛んでいた。
灯籠は回収された。
白花反応は、想定より細かった。
偽白には直接触れず、周囲の水を戻した。
騎士の右手は動かなかった。
また、完全ではない。
だが、記録盤には一瞬だけ、奇妙な反応が残っていた。
偽白がミラへ近づこうとした時、別の力が割り込んだ。
白花ではない。
治療師の反応でもない。
鋭く、硬く、守るための反応。
傷ついた騎士の右腕。
エルネストの目が熱を帯びる。
「……出た」
完全ではない。
けれど、出た。
先生に報告できる。
白花の女だけではない。
あの騎士の腕にも、黒を押し返す反応がある。
エルネストは記録盤を胸に押し当てた。
祭りの音が遠く聞こえる。
彼はまだ、自分が何を起こしたのか分かっていなかった。
観測のために流した偽りの白が、皮肉にも、エリオットの右手の奥に眠る力を、ほんの少し目覚めさせてしまったことを。




