夏灯祭の前に 3
銀環堂では、別の意味で戦場だった。
作業台には、水灯籠用の小さな魔道具がずらりと並んでいる。
水に浮かべる灯り。
子ども用の安全灯。
橋に吊るす青白い光玉。
夜道用の小さな手提げ灯。
セリアはその一つひとつを確認していた。
「この灯籠、封緘部が甘いです。落としたら水が入ります」
若い職人が慌てる。
「でも、去年はそれで問題なく」
「去年、子どもが落とさなかっただけです」
「は、はい」
「こちらの安全灯は、光量が強すぎます。目が痛くなります」
「祭りなので明るい方が」
「明るければ安全というわけではありません」
イザークが横で楽しそうに見ている。
「やっぱり君、うちの店に残らないか」
「残りません」
「残念だ」
オリヴァーは灯籠の一つを手に取り、構造を確かめた。
「水辺用としては悪くない。ただ、湿気止めの層が薄いね。フェルゼの港なら一晩で曇る」
「フェルゼ?」
ミラが聞くと、オリヴァーは頷いた。
「南河港フェルゼだ。いずれ南へ向かうなら、そこのリヴィア・カシュを訪ねるといい。看板には《潮鈴堂》とあるが、港では“カシュの工房”と言った方が通じる」
「リヴィアさん……」
「港荷の封印と水濡れ対策では、私より詳しい。紹介状は書いておく」
旅の先の話。
夏祭りの準備をしているのに、道はもう次へ伸びている。
ミラは少しだけ背筋を伸ばした。
その日の夕方、レオンはエリオットと共に運河沿いを歩いていた。
祭り当日の導線確認である。
「人が集まるのは、中央橋と灯籠流しの船着き場だな」
レオンが言う。
「治療院の涼み処は?」
「北側の広場。銀環堂の屋台は中央橋の手前。青灯亭へ戻るなら西の路地を使う方が早い」
エリオットは地図に目を落とした。
「運河沿いは逃げ道が限られる」
「そうだ。水辺に追い込まれる形になる。ミラさんを立たせる場所は選ぶ」
「俺はミラの近くに」
「ああ。ただし、人前では右手を使わない」
エリオットは少しだけ黙った。
「分かっている」
「祭りは人が多い。誰かが転ぶ。子どもが走る。荷が落ちる。悲鳴が上がる。その全部に反応していたら、右手を隠せない」
「……分かっている」
レオンは横目で彼を見た。
「分かっていても、ミラさんが危ないと思えば動くだろう」
エリオットは否定しなかった。
レオンは淡々と言う。
「だから、先に俺が動く。あなたはミラさんを動かす。右手を出すのではなく、彼女を危険から外す」
エリオットは少し考え、頷いた。
「分かった」
守るために、動かさない。
それは今のエリオットにとって、剣を振るうより難しいことだった。
祭りの準備が進む中、ミラの胸にも少しずつ楽しみが生まれていた。
薬草茶の香り。
運河に飾られる布。
屋台の準備をする人々の声。
夜に流す灯籠の話。
旅に出てから、ずっと治療と異変と追跡の中にいた。
だからこそ、街の人たちがただ祭りを楽しみにしている姿が、眩しく見えた。
その夜、青灯亭の食堂で、ミラは小さく言った。
「少し、楽しみです」
エリオットが顔を上げる。
「夏灯祭が?」
「はい。もちろん手伝いもありますし、警戒も必要なんですけど……でも、灯籠流しを見てみたいです」
「なら、見よう」
ミラは少し驚いた。
「いいんですか?」
「そのために残るんだろう」
「エリオットさんも、楽しめますか?」
エリオットは少しだけ考えた。
「君が楽しそうなら、たぶん」
あまりに真面目な声だったので、ミラは思わず笑ってしまった。
「それ、答えになってますか?」
「なっていないか」
「少しだけ」
エリオットの口元も、ほんのわずかに緩んだ。
翌日の午後、銀環堂に一人の使いがやって来た。
リンドル経由の安全便だった。
表向きの荷は、魔道具部品の検査報告と、布地管理に関する注意書き。
だが、封の内側に使われた白石粉の混ぜ方を見た瞬間、オリヴァーの表情が変わった。
「ライヘルからだ」
作業室にいた全員が動きを止めた。
ミラは思わず立ち上がる。
「兄さんから?」
「ああ」
オリヴァーは封筒を慎重に確認した。
封は二重。
一つはオリヴァー宛て。
もう一つは、符丁で書かれたミラたち宛ての手紙。
セリアがすぐに白石布を敷く。
「開封前確認を」
「頼む」
反応針に黒は出ない。
偽白の反応もない。
けれど、ミラの胸元の白花のペンダントが、ほんのわずかに温かくなった。
兄の手紙。
王都で何を見たのか。
何を解析したのか。
そして、何を警告しようとしているのか。
オリヴァーはまず、自分宛ての封を開いた。
読み進めるうちに、その表情が静かに険しくなっていく。
ミラは声をかけられなかった。
エリオットも、セリアも、レオンも黙っている。
やがてオリヴァーは手紙を閉じ、深く息を吐いた。
「……ミラ。エリオット君。これは、君たちにも関わる」
ミラの指先が冷たくなる。
オリヴァーはもう一通の封を手に取った。
「ライヘルから、白布の織り手と、封箱の管理者へ。警告だ」
夏祭りの明るい支度のただ中に、王都からの白い手紙が届いた。
そこには、まだ誰も知らない言葉が書かれている。
白く見える糸が、すべて正しいとは限らない。
冷たく乾いた白は、取ってはならない。




