夏灯祭の前に 2
記録整理が一段落したところで、オリヴァーが静かに口を開いた。
「そろそろ、私たちはリンドルへ戻る準備をしようと思う」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
ミラは顔を上げる。
「父さん……」
「物証は送り出した。セリアさんとレオンさんへの引き継ぎも進んでいる。エルダント治療院も、ミラを補助治療師として受け入れてくれている」
オリヴァーは穏やかに続けた。
「私がずっと一緒にいるより、リンドル側で情報と物証を整理する方が、これからは役に立つ」
分かっている。
分かっていた。
父がいつまでも同行できるわけではないことも、リンドルや王都への連絡網を支える人が必要なことも。
それでも、胸の奥が少し寂しくなった。
エリオットは何も言わず、ミラの隣に立っていた。
オリヴァーは娘の表情を見て、少しだけ笑う。
「もちろん、今日明日に出るわけじゃない。荷の確認もあるし、リンドルへの連絡もある」
そこへイザークが口を挟んだ。
「それなら、夏灯祭を見てからにしたらどうだ」
「夏灯祭?」
ミラが聞き返す。
イザークは作業椅子に腰かけたまま、窓の外の運河を指した。
「エルダントの夏祭りだ。夏の暑さを払い、水の恵みに感謝する。昼は屋台、夜は運河に灯籠を流す。銀環堂も毎年、灯りの魔道具と安全灯の点検で駆り出される」
メリッサも、ちょうど薬草箱を届けに来ていて頷いた。
「治療院も涼み処と薬草茶の屋台を出すわ。暑さで倒れる人も出るから、半分は祭り、半分は臨時診療所ね」
「臨時診療所……」
ミラが呟くと、エリオットがすかさず言った。
「手伝うとしても、休む時間を決めてからだ」
「まだ何も言ってません」
「言いそうだった」
「……言いそうでした」
素直に認めると、レオンが低く笑った。
「祭りは人が多い。護衛としては楽しい場所ではないな」
「ですが、街の導線を見るには良い機会です」
セリアが言う。
「治療院、銀環堂、青灯亭、運河沿い。人混みでの移動経路を確認できます」
「君たち、祭りを楽しむ気はあるのか」
イザークが呆れたように言った。
セリアは真顔で答える。
「安全確認が済めば楽しめます」
「順番が職人すぎる」
「安全でない祭りは祭りではありません」
「まあ、それはそうだな」
オリヴァーは皆のやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうだね。ここまでずっと気を張っていた。祭りの一日くらい、息をついてもいいかもしれない」
ミラは父を見る。
「父さんも?」
「ああ。私も手伝うよ。銀環堂の灯り魔道具は少し見てみたいしね」
イザークがにやりとする。
「助かる。オリヴァー工房の目で見てもらえるなら、うちの若い職人たちにも刺激になる」
「値上げの理由にしないでくださいね」
セリアがすかさず言う。
「君は本当にうちの店主にならないか」
「なりません」
その場に、久しぶりに穏やかな笑いが広がった。
翌日から、夏灯祭の準備が始まった。
エルダントの街は、少しずつ祭りの色に変わっていく。
運河沿いには細い飾り紐が張られ、涼しげな青や白の布が風に揺れる。橋の欄干には、夜に灯りを入れるための小さな吊り器具が取り付けられていた。
治療院では、メリッサが薬草茶の配合を確認している。
「暑気払い用は、薄荷と白花草を少し。眠気が出る配合は避けて。子ども用は苦みを抑えるわ」
ミラは薬草を量りながら頷いた。
「喉に優しいものも用意しますか? 薬袋事件の患者さんたちは、まだ咳が残っている人もいますし」
「そうね。では、それはあなたに任せるわ」
「はい」
任される。
そのことが、少し嬉しかった。
ただし、白花の力ではない。
薬草の知識と、普通の治療師としての判断で。
待合室では、薬師見習いたちが祭り用の小袋を詰めている。安宿街の宿主が顔を出し、「涼み処の場所を客に伝えておく」と言ってくれた。
ほんの数日前には、怪しい薬袋で青ざめていた人々が、今は祭りの準備を手伝っている。
ミラはその変化を静かに噛みしめた。




