夏灯祭の前に 1
薬袋事件が落ち着きを見せたのは、翌日の午後だった。
エルダント治療院の入口には、まだ注意書きが貼られている。
――出所不明の薬袋を使用しないこと。
――咳、熱、薬効低下がある場合は治療院へ。
――薬袋には素手で触れず、布に包んで持参すること。
だが、待合室に漂っていた張りつめた空気は、少しずつ薄れていた。
最後の薬袋は回収された。
患者たちも大事には至らなかった。
怪しい薬師の行方は掴めていないが、少なくとも、同じ薬袋による新たな被害は止まっている。
ミラは処置室で、薬草茶を飲み終えた老人の顔色を確認していた。
「息苦しさはどうですか?」
「昨日よりずっと楽だよ。喉も焼けるような感じがなくなった」
「よかったです。でも、今日は長く歩かないでくださいね。薬が効き始めたところなので」
「はいはい。治療師さんの言うことは聞くよ」
老人は少し照れたように笑った。
その呼び方に、ミラは一瞬だけ目を瞬いた。
治療師さん。
危険な白い術式の娘ではなく。
ただの、治療師。
胸の奥が、じんわり温かくなった。
隣で薬師長のメリッサ・グレイが記録を確認している。
「経過は良好ね。薬袋の影響は抜けてきているわ」
「はい。薬草水の通りも戻っています」
「ミラさん、今日の午後はもう軽い処置だけでいいわ。ここ数日、気を張りすぎている」
ミラは少し首を振りかけたが、背後から低い声がした。
「従った方がいい」
エリオットだった。
右腕は補助具の中。左手には記録帳。いつも通り、ほんの少し離れた位置に立っている。
ミラは困ったように彼を見た。
「エリオットさんまで」
「メリッサさんの判断は正しい」
「私、そんなに疲れて見えますか?」
「見える」
即答だった。
ミラは少しだけ頬を膨らませた。
メリッサが小さく笑う。
「では決まりね。午後は薬草棚の整理と、軽傷患者だけ。白花の確認はなし」
「……はい」
ミラは素直に頷いた。
以前なら、まだできます、と言っていたかもしれない。
けれど今は、止まることも治療の一部なのだと分かってきていた。
その日の夕方、銀環堂の奥の作業室には、ミラたちが集まっていた。
薬袋事件の記録をまとめるためだ。
セリアは、回収された黒紙媒介の反応写しを整え、時刻順に並べている。レオンは安宿街での聞き取り記録を地図に書き込んでいた。
オリヴァーは、それらを確認しながら、封印箱の蓋を閉めた。
「これで薬袋事件の記録はひとまずまとまった。黒紙媒介の実物は銀環堂で一時保管。反応写しは分けて送る」
「怪しい薬師本人は捕まっていません」
セリアが言う。
「なので事件終了ではなく、被害拡大停止として記録します」
「その書き方が妥当だね」
オリヴァーは頷いた。
レオンが腕を組む。
「安宿街では、もう同じ薬袋は見つかっていない。ただ、薬師風の男を見たという証言は薄い。顔を覚えている者が少なすぎる」
「意図的に印象を薄くしていたんでしょうね」
セリアは淡々と言った。
「声、服装、売り方。全部、記憶に残りにくいよう調整している」
ミラはその言葉に眉を寄せた。
「また動くでしょうか」
「動くと思います」
セリアの返答は早かった。
「でも、同じ方法は使いにくいです。薬袋は街全体で警戒されていますから」
オリヴァーは少しだけ息を吐いた。
「そういう意味では、今回の対応はうまくいった。治療院も銀環堂も、街の人も、次は警戒できる」
イザークが作業台の向こうから言った。
「ま、うちの店が忙しくなる程度にはな。薬袋の簡易検査布を作れって、朝から注文が来ている」
セリアがぴくりと反応する。
「検査布は粗製乱造しないでください。精度が落ちます」
「分かっている。だから君に見積もりを頼もうとしていた」
「祭り前に仕事を増やす気ですか」
「祭り前だから売れる」
「店主」
「冗談だ。半分は」
セリアは呆れた顔をした。
そのやり取りに、ミラは少しだけ笑った。
張りつめた日々の中で、こういう何気ない会話が戻ってくることが嬉しかった。




