まだ燃えていない紙片 2
午後、マティアスは通常業務を装い、遠征隊の補給記録を提出した。
その足で、騎士団本部の裏手にある馬具倉庫へ向かう。
そこは人の出入りが多い。荷馬車、飼葉、修理用の革紐、遠征用の予備具。誰かが一人立ち寄っても目立たない。
マティアスは古い鞍袋を一つ手に取った。
その内側には、遠征先で使った小さな隠しポケットがある。彼はそこへ金属筒を滑り込ませた。
そして、鞍袋の札を別の荷に付け替える。
この鞍袋は明日、遠征装備の修繕品として市中の革職人へ出る。革職人の店は、騎士団の外にある。そこから先は、マティアスが昔から使っている私的な連絡路へ移せる。
王都の外へ逃がすつもりはまだない。
だが、騎士団本部の中に置いておくよりはいい。
そう思った時、背後から声がした。
「マティアス」
マティアスの体が固まった。
振り返ると、アルベルト・レーヴェンが倉庫の入口に立っていた。
騎士団長自らが、こんな場所へ来ることは滅多にない。
マティアスはすぐに背筋を伸ばした。
「レーヴェン団長」
「遠征装備の確認か」
「はい。革具の傷みがありましたので、修繕に回すものを確認していました」
「そうか」
アルベルトは倉庫の中を見渡した。
その視線が、鞍袋の上を一度通った。
気づいたのか。
気づいていないのか。
マティアスには分からない。
アルベルトは静かに言った。
「遠征帰りで疲れているだろう。だが、しばらくは王都での任務が増える」
「承知しています」
「二年前の記録整理にも、協力を求めることになるかもしれない」
マティアスの喉が渇く。
「私で役に立つことがあれば」
アルベルトの目が、まっすぐ彼を射抜いた。
「役に立つかどうかは、お前が何を覚えているかによる」
冷たい言葉ではなかった。
だが、逃げ場を削る響きがあった。
マティアスは頭を下げる。
「……記憶は曖昧です」
「そうだろうな」
アルベルトは短く答えた。
「人は、自分に都合の悪いことほど曖昧にする」
マティアスは顔を上げられなかった。
数秒の沈黙の後、アルベルトは倉庫を出て行った。
足音が遠ざかる。
マティアスはその場に立ち尽くした。
今のは警告だ。
しかし同時に、道でもあった。
覚えているなら、話せ。
そう言われたのだ。
だが、まだ話せない。
話した瞬間、自分は罪人になる。
話さなければ、いずれ誰かに消される。
「くそ……」
低く吐き捨て、マティアスは鞍袋の札を確かめた。
まだ動かせる。
まだ、自分には次の手がある。
その夜、ヘルムート副官はアルベルトから倉庫でのやり取りを聞いた。
「団長、直接揺さぶったのですか」
「顔を見たかった」
「いかがでしたか」
「怯えている。だが、まだ折れていない」
ユアンが横で言った。
「何かを動かしていましたか」
「鞍袋を見ていた」
ヘルムート副官の目が細くなる。
「遠征装備の修繕品として外へ出る可能性がありますね」
「追えるか」
「追えます。ただし、すぐ押さえるとこちらの監視が露見します」
アルベルトは頷いた。
「なら、追うだけでいい。中身にはまだ触るな」
「承知しました」
ユアンは少しだけ息を吐く。
「レイドは、本当に厄介な保険をいくつも持っていそうですね」
「だからこそ、すぐ拘束しない」
アルベルトは言った。
「マティアスはまだ、自分が助かるために動いている。だが、その動きは必ず誰かにつながる」
「ガレスへ」
ユアンが言う。
アルベルトはすぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「ガレスだけではないかもしれない」
セーヴァルト侯爵。
その名は、まだここで軽々しく口にする段階ではなかった。
だが、全員が同じ影を見ていた。
その頃、王都の貴族街にあるセーヴァルト侯爵邸では、ベルトランが報告を受けていた。
「レイドは証拠を動かした可能性があります」
控える男が低く言った。
「騎士団側にも気取られています。オルブライト副団長は、まだ処理に踏み切っていません」
ベルトランは椅子に腰掛けたまま、指先で杯の縁をなぞった。
「オルブライトは慎重すぎるな」
「副団長の立場を守りたいのでしょう」
「だからこそ使える。だが、守るものが多い者は動きが鈍る」
ベルトランの声は冷ややかだった。
「レイドは?」
「怯えています。ただ、完全には折れていません。何かを外へ逃がそうとしている可能性が」
「泳がせろ」
男が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「追い詰めた鼠は、穴へ走る。どの穴へ向かうかを見れば、隠しているものの場所も分かる」
ベルトランは杯を置いた。
「ただし、レーヴェンに先に拾われるな」
「承知しました」
男が下がる。
ベルトランは窓の外を見た。
エリオット・バーンスタン。
白花の治療師。
王都で開き始めた古い記録。
そして、過去に関わった小さな駒たち。
すべてが面倒な方向へ動いている。
だが、まだ盤面は崩れていない。
「古い紙片に、どれほどの価値があるか」
彼は薄く笑った。
「確かめさせてもらおう」
翌朝、マティアスが札を付け替えた鞍袋は、他の修繕品とともに騎士団本部を出た。
荷車は市中の革職人へ向かう。
その後ろを、目立たない距離でヘルムート副官の部下が追っていた。
さらに離れた路地から、侯爵側の影も追っていた。
マティアスは本部の窓から、その荷車が門を出るのを見送った。
口元には、わずかな緊張がある。
これでいい。
あの金属筒が外へ出れば、少なくとも自分を即座に消すことはできない。
そう思いたかった。
だが、同時に分かっていた。
もう、誰も自分をただの遠征帰りの騎士として見ていない。
ガレスも。
レーヴェン団長も。
ヘルムート副官も。
セーヴァルト侯爵も。
全員が、自分の手元を見ている。
それでも、まだ言えない。
まだ折れない。
まだ、自分には最後の一手がある。
マティアスは窓から離れた。
王都騎士団の中で、二年前の事故を巡る駒は、まだ盤上に残されている。
そしてその駒は、誰にも見せていない刃を、ひとつ隠し持っていた。




