↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
291/354

まだ燃えていない紙片 2

 午後、マティアスは通常業務を装い、遠征隊の補給記録を提出した。

 その足で、騎士団本部の裏手にある馬具倉庫へ向かう。

 そこは人の出入りが多い。荷馬車、飼葉、修理用の革紐、遠征用の予備具。誰かが一人立ち寄っても目立たない。

 マティアスは古い鞍袋を一つ手に取った。

 その内側には、遠征先で使った小さな隠しポケットがある。彼はそこへ金属筒を滑り込ませた。

 そして、鞍袋の札を別の荷に付け替える。

 この鞍袋は明日、遠征装備の修繕品として市中の革職人へ出る。革職人の店は、騎士団の外にある。そこから先は、マティアスが昔から使っている私的な連絡路へ移せる。

 王都の外へ逃がすつもりはまだない。

 だが、騎士団本部の中に置いておくよりはいい。

 そう思った時、背後から声がした。

「マティアス」

 マティアスの体が固まった。

 振り返ると、アルベルト・レーヴェンが倉庫の入口に立っていた。

 騎士団長自らが、こんな場所へ来ることは滅多にない。

 マティアスはすぐに背筋を伸ばした。

「レーヴェン団長」

「遠征装備の確認か」

「はい。革具の傷みがありましたので、修繕に回すものを確認していました」

「そうか」

 アルベルトは倉庫の中を見渡した。

 その視線が、鞍袋の上を一度通った。

 気づいたのか。

 気づいていないのか。

 マティアスには分からない。

 アルベルトは静かに言った。

「遠征帰りで疲れているだろう。だが、しばらくは王都での任務が増える」

「承知しています」

「二年前の記録整理にも、協力を求めることになるかもしれない」

 マティアスの喉が渇く。

「私で役に立つことがあれば」

 アルベルトの目が、まっすぐ彼を射抜いた。

「役に立つかどうかは、お前が何を覚えているかによる」

 冷たい言葉ではなかった。

 だが、逃げ場を削る響きがあった。

 マティアスは頭を下げる。

「……記憶は曖昧です」

「そうだろうな」

 アルベルトは短く答えた。

「人は、自分に都合の悪いことほど曖昧にする」

 マティアスは顔を上げられなかった。

 数秒の沈黙の後、アルベルトは倉庫を出て行った。

 足音が遠ざかる。

 マティアスはその場に立ち尽くした。

 今のは警告だ。

 しかし同時に、道でもあった。

 覚えているなら、話せ。

 そう言われたのだ。

 だが、まだ話せない。

 話した瞬間、自分は罪人になる。

 話さなければ、いずれ誰かに消される。

「くそ……」

 低く吐き捨て、マティアスは鞍袋の札を確かめた。

 まだ動かせる。

 まだ、自分には次の手がある。

     

 その夜、ヘルムート副官はアルベルトから倉庫でのやり取りを聞いた。

「団長、直接揺さぶったのですか」

「顔を見たかった」

「いかがでしたか」

「怯えている。だが、まだ折れていない」

 ユアンが横で言った。

「何かを動かしていましたか」

「鞍袋を見ていた」

 ヘルムート副官の目が細くなる。

「遠征装備の修繕品として外へ出る可能性がありますね」

「追えるか」

「追えます。ただし、すぐ押さえるとこちらの監視が露見します」

 アルベルトは頷いた。

「なら、追うだけでいい。中身にはまだ触るな」

「承知しました」

 ユアンは少しだけ息を吐く。

「レイドは、本当に厄介な保険をいくつも持っていそうですね」

「だからこそ、すぐ拘束しない」

 アルベルトは言った。

「マティアスはまだ、自分が助かるために動いている。だが、その動きは必ず誰かにつながる」

「ガレスへ」

 ユアンが言う。

 アルベルトはすぐには答えなかった。

 やがて、静かに言う。

「ガレスだけではないかもしれない」

 セーヴァルト侯爵。

 その名は、まだここで軽々しく口にする段階ではなかった。

 だが、全員が同じ影を見ていた。

     

 その頃、王都の貴族街にあるセーヴァルト侯爵邸では、ベルトランが報告を受けていた。

「レイドは証拠を動かした可能性があります」

 控える男が低く言った。

「騎士団側にも気取られています。オルブライト副団長は、まだ処理に踏み切っていません」

 ベルトランは椅子に腰掛けたまま、指先で杯の縁をなぞった。

「オルブライトは慎重すぎるな」

「副団長の立場を守りたいのでしょう」

「だからこそ使える。だが、守るものが多い者は動きが鈍る」

 ベルトランの声は冷ややかだった。

「レイドは?」

「怯えています。ただ、完全には折れていません。何かを外へ逃がそうとしている可能性が」

「泳がせろ」

 男が顔を上げる。

「よろしいのですか」

「追い詰めた鼠は、穴へ走る。どの穴へ向かうかを見れば、隠しているものの場所も分かる」

 ベルトランは杯を置いた。

「ただし、レーヴェンに先に拾われるな」

「承知しました」

 男が下がる。

 ベルトランは窓の外を見た。

 エリオット・バーンスタン。

 白花の治療師。

 王都で開き始めた古い記録。

 そして、過去に関わった小さな駒たち。

 すべてが面倒な方向へ動いている。

 だが、まだ盤面は崩れていない。

「古い紙片に、どれほどの価値があるか」

 彼は薄く笑った。

「確かめさせてもらおう」

     

 翌朝、マティアスが札を付け替えた鞍袋は、他の修繕品とともに騎士団本部を出た。

 荷車は市中の革職人へ向かう。

 その後ろを、目立たない距離でヘルムート副官の部下が追っていた。

 さらに離れた路地から、侯爵側の影も追っていた。

 マティアスは本部の窓から、その荷車が門を出るのを見送った。

 口元には、わずかな緊張がある。

 これでいい。

 あの金属筒が外へ出れば、少なくとも自分を即座に消すことはできない。

 そう思いたかった。

 だが、同時に分かっていた。

 もう、誰も自分をただの遠征帰りの騎士として見ていない。

 ガレスも。

 レーヴェン団長も。

 ヘルムート副官も。

 セーヴァルト侯爵も。

 全員が、自分の手元を見ている。

 それでも、まだ言えない。

 まだ折れない。

 まだ、自分には最後の一手がある。

 マティアスは窓から離れた。

 王都騎士団の中で、二年前の事故を巡る駒は、まだ盤上に残されている。

 そしてその駒は、誰にも見せていない刃を、ひとつ隠し持っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。