まだ燃えていない紙片 1
マティアスは、自分が追い詰められていることを理解していた。
オルブライト副団長は、もう自分を信用していない。
レーヴェン団長側は、手帳の一部を掴んだ。
セーヴァルト侯爵側は、扉の下に黒いカードを差し込んできた。
――古い記録は、持ち主を守らない。
その一文が、頭から離れない。
だが、マティアスはまだ終わっていなかった。
宿舎の自室で、彼は残った手帳を机に置いた。礼拝室に隠した紙片は、もう誰かに見られたと考えるべきだ。あの封筒は保険であり、同時に餌でもあった。レーヴェン団長側が拾ったのか、侯爵側が見たのか、それとも両方か。
分からない。
分からないなら、次の手を打つしかない。
マティアスは手帳の表紙を撫でた。
二年前、彼は愚かではなかった。
ガレスの指示で動いた。
記録紙を回収した。
中央白石板の異常を消した。
ノルベルトを黙らせた。
ヴィクトルが余計なことを言わないよう、圧の場にも立った。
だが、そのすべてを一か所に残すほど、愚かではなかった。
「……俺だけが沈むわけにはいかない」
低く呟き、彼は引き出しの奥から小さな金属筒を取り出した。
親指ほどの通信筒。遠征時に使われる簡易の封筒入れで、雨や泥に強い。中に入っているのは、紙片ではない。
封蝋の欠けらだった。
二年前、初記録紙を差し替えた夜。ガレスから受け取った短い指示書の封に使われていた蝋。その指示書本体は燃やした。燃やすよう命じられたからだ。
けれど、封蝋の欠片だけは残した。
そこには、オルブライト家の正規印ではない。
副団長付きの私的連絡印でもない。
もっと曖昧で、もっと危険な印が残っていた。
貴族筋と騎士団内の私的命令が混じる時に使われる、裏の印。
マティアスはそれを見つめ、薄く笑った。
手帳は餌になる。
走り書きは疑いになる。
証言は崩される。
だが、封蝋は違う。
誰が何を命じたかまでは語らない。けれど、二年前の事故処理に「騎士団の正規記録ではない命令系統」が関わったことを示せる。
それだけで十分だった。
今はまだ。
その朝、ヘルムート副官のもとには、礼拝室の監視記録が届いていた。
マティアスが封筒に触れた。
その後、外部筋の再接触はない。
オルブライト副団長の使いも動いていない。
ヘルムート副官は記録を読み、わずかに眉を寄せた。
「静かすぎますね」
ユアンが机の向かいで腕を組む。
「レイドが?」
「はい。封筒がすり替えられたと気づいたはずです。普通なら、すぐに別の保険を動かす」
「すでに動かした後、という可能性は」
「あります」
ヘルムート副官は、封じられた紙片の写しを見た。
――G指示、記述削除。
この一文だけでは足りない。ガレスの名を直接示すものではない。だが、そこへつながる線としては十分に重い。
ユアンが低く言った。
「レイドは、まだ何か持っていますね」
「ええ。おそらく」
「回収しますか」
「今はまだ」
ヘルムート副官は即答した。
「彼が持っているものを無理に取り上げれば、口を閉ざします。むしろ、自分から差し出す状況を作るべきです」
「逃げ道を見せる」
「はい。ただし、逃げ切れない道を」
ユアンは苦笑した。
「あなたらしい」
ヘルムート副官は表情を変えずに言った。
「必要なので」
同じ頃、ガレスのもとにも別の報告が届いていた。
マティアスが昨夜、礼拝室へ入った。
しばらくして出てきた。
その後、動揺した様子が見られた。
報告者は副団長付きの騎士ではない。セーヴァルト侯爵側から流れてきた情報だった。
ガレスは紙を読んで、静かに息を吐いた。
侯爵側は、マティアスを見ている。
そしてその情報を、自分にも流している。
それは親切ではない。
警告だ。
――お前の駒が勝手に動いているぞ。
――処理しろ。
――できなければ、こちらが動く。
そう言われているのと同じだった。
ガレスは椅子に背を預ける。
マティアスは何かを持っている。
それはもう疑いではなかった。
問題は、それが何かだ。
走り書きか。
記録紙か。
誰かの証言か。
それとも、自分に繋がる何かか。
ガレスは机の上の書類を整えた。
今すぐ切るべきか。
だが、マティアスを消せば、逆にレーヴェン団長側が動く。ヘルムート副官は必ず不審に思う。ユアンは追う。魔術院のコックスとフェンネルも、印章や結界具と結びつけるだろう。
なら、まだ使う。
使いながら、持っているものを探る。
「マティアス……余計な知恵をつけたな」
ガレスは低く呟いた。




