盤上の嘘 3
一方、マティアスはその日の夕刻、礼拝室へ向かった。
ガレスとの面談の後、彼はどうしても封筒を確認せずにはいられなかった。
古い礼拝室。
寄進箱の裏。
封筒は、そこにあった。
マティアスは息を吐きかけた。
だが、すぐに止まる。
位置が、ほんの少し違う。
自分はもう少し奥へ差し込んだはずだ。
封の角も、壁に触れるように置いたはずだ。
今の封筒は、ほとんど同じに見える。
だが、違う。
誰かが触った。
マティアスは血の気が引くのを感じた。
封筒を開けたい。
だが、開ければ痕が残るかもしれない。
触るな。
そう思った時には、もう指が封筒の角に触れていた。
しまった。
彼はすぐに手を引いた。
だが、遅かった。
指先に、かすかに白い粉がついている。
目に見えるか見えないかの、薄い粉。
罠。
マティアスは一瞬、立ち尽くした。
レーヴェン団長側か。
ヘルムート副官か。
それとも侯爵側か。
分からない。
ただ一つだけ分かる。
封筒は、もう自分だけの保険ではない。
誰かが、中身を知った。
マティアスは手を握りしめた。
これで、自分は完全に盤上へ引きずり出された。
同じ頃、ガレスの執務室にはセーヴァルト侯爵側からの新しい連絡が届いていた。
短い文面。
――レイドが証拠を保持している可能性あり。
――放置は危険。
――必要なら整理を。
ガレスはその文を読み、しばらく動かなかった。
マティアス。
使える駒。
だが、保険を持ち始めた駒。
侯爵側にも目をつけられた駒。
このまま使い続けるか。
切るか。
どちらにせよ、急げばレーヴェン団長に気づかれる。
遅れれば、マティアスが誰かへ走る。
ガレスは静かに目を閉じた。
騎士団の中で築いた地位。
副団長の椅子。
政治筋との繋がり。
二年前に終わらせたはずの事故。
すべてが、古い紙片一枚で揺らぎ始めている。
「……マティアス」
低く呼んだ名は、誰にも届かない。
ガレスは机の上の連絡紙を火にくべた。
灰が落ちる。
その黒さを見ながら、彼は決めた。
マティアスをまだ切らない。
だが、いつでも切れる場所へ追い込む。
夜、ヘルムート副官のもとに、礼拝室の反応粉の記録が届いた。
封筒に触れた者あり。
反応は、マティアス・レイドの手袋と一致。
外部筋の再接触は、現時点でなし。
ヘルムート副官は報告を読み、静かに頷いた。
「彼は気づきましたね」
隣にいたユアンが言う。
「封筒がすり替わったことに?」
「おそらく」
「これで、レイドはどう動くでしょう」
ヘルムート副官は少しだけ考えた。
「二つに一つです。こちらへ逃げ込むか、オルブライト副団長へ縋るか」
「侯爵側は?」
「最も選びたくないはずです。あちらは保護ではなく処分を考えるでしょうから」
ユアンは窓の外を見た。
「なら、次が山ですね」
「ええ」
ヘルムート副官は封じられた紙片の写しを机に置いた。
「駒が、自分の意思でどの陣へ動くか」
王都騎士団の夜は静かだった。
だが、盤上ではもう、誰も元の位置には戻れなくなっていた。




