盤上の嘘 2
その頃、古い礼拝室の前では、別の影が動いていた。
夜の騎士団本部は静かだ。見張りはいるが、すべての廊下を常に見ているわけではない。まして、ほとんど使われていない礼拝室に立ち寄る者など、普通はいない。
だが、その夜は違った。
昼間に見かけた外部の使者とは別の、若い下働き風の男が、礼拝室の前で足を止めた。
彼は周囲を見回し、扉を少しだけ開ける。
中へ入る。
真っ先に向かったのは、壁際の古い寄進箱だった。
だが、男が箱の裏へ手を伸ばすより先に、廊下の向こうで足音が鳴った。
男は素早く身を引いた。
「誰だ」
見回りの騎士が声を上げる。
男は答えず、反対側の扉から逃げた。
追わない。
それがヘルムート副官から命じられていた方針だった。
追跡より、観察。
誰が何を見に来たのか。
どこへ手を伸ばそうとしたのか。
その情報の方が、今は重要だった。
見回りの騎士は、礼拝室に入り、寄進箱の裏を確認した。
封筒はまだある。
だが、もう放置するには危険だった。
翌朝、ヘルムート副官の机には、封筒が置かれていた。
外見はただの古い紙封筒。
宛名なし。封印なし。だが、内側に小さな印がついている。
ヘルムート副官はそれをしばらく見つめた後、ユアンを呼んだ。
「回収したんですか」
ユアンは封筒を見て言った。
「昨夜、外部筋が礼拝室へ入りました。寄進箱の裏へ手を伸ばそうとしたため、これ以上の放置は危険と判断しました」
「レイドは気づいていますか」
「まだでしょう。ですが、いずれ確認に行くはずです」
ヘルムート副官は封筒を白い布の上に置いた。
「開けます」
中から出てきたのは、一枚の古い紙片だった。
走り書き。
インクは少し掠れているが、読める。
――中央白石板、黒沈み。
――初記録紙、ノルベルト。
――回収。
――G指示、記述削除。
ユアンの表情が変わった。
「G」
「ガレス、と断定するには足りません」
ヘルムート副官は静かに言った。
「ですが、二年前の事故当日、中央白石板の黒沈みを記した初記録紙が存在し、それをレイドが回収した。そして、何者かの指示で記述が削除された」
「ノルベルトの証言と一致する」
「旧結界具の解析とも一致します」
ユアンは紙片を見つめた。
たった一枚。
だが、重い。
ヴィクトルの証言。
ノルベルトの証言。
旧結界具の黒系屈曲痕。
そして、マティアスの手から出たと思われる走り書き。
それぞれはまだ細い。
だが、線になり始めている。
ヘルムート副官は封筒を別の封印袋に入れた。
「レーヴェン団長へ」
アルベルトは紙片を読み終えると、長く黙った。
団長室には、ヘルムート副官とユアンだけがいる。
「G指示、か」
アルベルトの声は低い。
「これだけでは、オルブライト副団長を指すとは言えません」
ヘルムート副官が言う。
「分かっている」
アルベルトは紙片を机に置いた。
「だが、マティアスが二年前に何かを記録し、今それを保険として隠したことは分かった。しかも、侯爵側と思われる影がそれを探りに来た」
ユアンが頷く。
「レイドは、ガレスにも侯爵にも完全には従っていない。自分の保身で動いている」
「だからこそ、使える」
アルベルトは静かに言った。
「追い詰めすぎるな。だが、逃がすな」
ヘルムート副官はすぐに答えた。
「封筒は一度回収しましたが、礼拝室には代わりの封筒を戻します。中身は無害な白紙。ただし、触れた者が分かるよう、薄い反応粉を仕込みます」
ユアンが苦笑した。
「本当に用意がいい」
「必要なので」
アルベルトはわずかに目を細めた。
「マティアスが次に確認に行けば、封筒がそのままに見える。侯爵側が取りに来ても、誰が触れたか分かる」
「はい」
「ガレスは?」
アルベルトが、あえて名で呼んだ。
室内の空気が少しだけ変わる。
ヘルムート副官は答えた。
「オルブライト副団長は、レイド卿を呼び出しています。内容は不明ですが、面談後、レイド卿の様子に乱れがありました」
アルベルトは静かに言った。
「まだ、直接は動かない」
「はい」
「だが、次にガレスがマティアスを切り捨てようとしたら、止める」
ユアンは頷いた。
「レイドを保護対象に?」
「その時はな」
アルベルトの目が冷える。
「今はまだ、自分の罪を認める覚悟も、真実を話す覚悟もない。だが、彼が持つものは必要だ」




