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盤上の嘘 1

 ガレスの執務室は、いつも通り整っていた。

 机の上には、遠征報告書が数冊。騎士団内の配置表。古い訓練場の備品点検に関する通知。余計なものは何もない。

 その整い方が、マティアスにはかえって恐ろしかった。

「座れ、マティアス」

 ガレスは静かに言った。

 人払いは済んでいる。扉の外には副団長付きの騎士が一人いるだけだ。

 マティアスは椅子に腰を下ろした。

「戻って早々、悪いな」

「いいえ。必要なことでしたら」

「必要なことだ」

 ガレスは机の上の書類を一枚、指先で押さえた。

「ノルベルトが配置を外れた」

 やはり来た。

 マティアスは表情を崩さなかった。

「体調不良と聞きました」

「そう聞かされた、の間違いだろう」

 ガレスの声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさの底に刃がある。

「マティアス。お前は昨日、ノルベルトと話したな」

「はい。古い記録について、少し確認を」

「その後、ノルベルトはヘルムート副官に保護された」

「……そのようですね」

「何を話した」

 マティアスは一瞬だけ黙った。

 嘘をつくなら、完全な嘘ではいけない。

 本当の周りに、隠したい部分だけを沈める。

「二年前の事故記録について、誰かに聞かれたかと確認しました。彼は怯えていましたが、記憶は曖昧です。自分が何を書いたのか、確信が持てない様子でした」

 ガレスはマティアスを見た。

 その目は冷たい。

「それだけか」

「それだけです」

「本当に?」

 マティアスの背筋を、冷たい汗が流れた。

 ガレスは書類を開いた。

「レーヴェン団長側は、旧結界具を団長直轄へ移した。ヴィクトル・グレインを保護観察下に置いた。ノルベルトも保護した。魔術院のコックスとフェンネルまで出入りしている」

 コックス。

 フェンネル。

 マティアスはその二つの姓を頭の中で繰り返した。

 魔術院側の解析者。

 旧結界具に、何か残っていたのか。

 ノルベルトは何を話したのか。

 ヴィクトルはどこまで口を開いたのか。

 分からないことばかりが増えていく。

 ガレスは続けた。

「こちらが何も得ていないのに、向こうだけが動きを早めている。おかしいと思わないか」

「……ノルベルトが、何かを話したのかもしれません」

「何を」

 マティアスは喉を鳴らした。

「そこまでは」

「お前は、何を聞いた」

 ガレスの声が、少しだけ低くなった。

「マティアス。俺は、お前を二年前から見ている。お前は無能ではない。何も得られなかった者の顔ではなかった」

 言葉が刺さる。

 マティアスは膝の上で拳を握った。

「副団長こそ、私に何を隠しているのですか」

 その問いは、ほとんど衝動だった。

 言った瞬間、部屋の空気が凍った。

 ガレスの目が細くなる。

「何だと」

「私は、命じられたことをしました。二年前も、今も。ですが、こちらには何も知らされていません。ヴィクトルがどこまで話したのか。印章がどこまで効いているのか。旧結界具に何が残っていたのか」

 マティアスは言葉を選びながらも、止まれなかった。

「私だけが何も知らずに動けば、切り捨てられるのは私です」

 ガレスはしばらく黙った。

 それから、ゆっくりと背を椅子へ預けた。

「自分が切り捨てられると思っているのか」

「思わない方が不自然でしょう」

 言ってしまった。

 だが、もう戻せない。

 ガレスは怒鳴らなかった。

 ただ、静かに言った。

「なら、切り捨てられない働きをしろ」

 マティアスは息を止めた。

「ノルベルトが何を話したか探れ。ヴィクトルの所在を探れ。旧結界具の鑑定結果がどこへ出るのか確認しろ」

「今の警戒下で、それは簡単ではありません」

「簡単なら、お前を使わない」

 その言葉に、マティアスは内心で笑いそうになった。

 使う。

 やはりそうだ。

 自分は部下ではない。仲間でもない。

 使える駒。

 それだけだ。

「承知しました」

 マティアスは頭を下げた。

「ただし、動くには時間が必要です」

「長くは待てない」

「急げば、ヘルムート副官に拾われます」

 ガレスは一瞬だけ黙った。

 ヘルムート副官の名は、それだけで重かった。

 感情ではなく記録で追ってくる男。逃げ道を塞ぐのに、声を荒らす必要がない男。

「分かっている」

 ガレスは短く言った。

「だからこそ、お前には慎重に動いてもらう」

 マティアスは立ち上がった。

「では、失礼します」

 扉へ向かう直前、ガレスが低く声をかけた。

「マティアス」

 マティアスは振り返った。

「はい」

「古い記録に縋るな」

 心臓が、大きく跳ねた。

 ガレスは表情を変えない。

「二年前のことを掘り返しても、誰も救われない。お前自身もだ」

 マティアスは、必死に顔を動かさなかった。

「肝に銘じます」

 そう答え、部屋を出た。

 扉が閉まる。

 廊下に出た瞬間、マティアスは息を吐いた。

 ガレスは知っているのか。

 手帳のことを。

 それとも、ただ牽制しただけか。

 分からない。

 分からないことが、多すぎる。

     


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