古い記録は守らない 3
廊下の暗がりで、ヘルムート副官の部下が静かに息を潜めていた。
マティアスが立ち去ってから、しばらく待つ。
すぐには動かない。
誰か別の者が現れるかもしれないからだ。
数十息ほどして、今度は別の足音が近づいた。
軽い。
騎士の足音ではない。
昼間に見た外部の使者ではない。もっと若い。おそらく、貴族家の下働きか連絡役。
その影は礼拝室の前で一度止まり、中を覗いた。
しかし、すぐには入らなかった。
何かを確認するように、壁際へ目を向ける。
それから、小さく舌打ちしたような気配を残して去っていった。
ヘルムート副官の部下は、それを追わなかった。
命令は追跡ではない。
観察。
誰が、どこへ、何を見に来たか。
それを記録することだった。
翌朝、ヘルムート副官は報告を受け取った。
礼拝室。
寄進箱の裏。
マティアスが封筒を隠した。
その後、外部筋と思われる者が確認に来た。
ヘルムート副官は、報告書を閉じた。
「レイドは保険を動かしました」
レーヴェン団長は静かに頷いた。
団長室にはユアンもいた。
「回収しますか」
ユアンが問う。
ヘルムート副官は首を横に振った。
「まだです」
「なぜ」
「外部筋がもう一度来る可能性があります。封筒を動かせば、こちらが見ていると知られる」
レーヴェン団長は低く言った。
「だが、侯爵側に取られれば失う」
「封筒の位置は把握しています。礼拝室の出入りはすでに記録対象にしました。必要なら、回収前にすり替えます」
ユアンが感心したように息を吐いた。
「本当に敵に回したくないですね」
「だから味方にも言われると申し上げました」
ヘルムート副官は淡々としている。
レーヴェン団長は、机の上に指を置いた。
「マティアスに接触するのはまだ早いか」
「はい。今は、彼が誰に恐れているかを見極める段階です」
「オルブライト副団長か、侯爵か」
「両方でしょう」
ユアンが補足した。
「ただ、恐れ方が違う。オルブライト副団長には切られることを恐れている。侯爵側には、存在ごと消されることを恐れている」
レーヴェン団長の目が細くなった。
「その差が、こちらの突破口になる」
「ええ」
一方、ガレス・オルブライト副団長も、マティアスの変化に気づいていた。
報告が遅い。
内容が薄い。
視線が揺れる。
マティアスは何かを掴んでいる。
そして、それを隠している。
ガレスは机の上の書類を閉じた。
「レイドを呼べ」
側近が一礼して出ていく。
ガレスは窓の外を見た。
セーヴァルト侯爵からは、再び催促が来ていた。
――再調査の進行状況を報告せよ。
――エリオット・バーンスタンの現状確認を急げ。
――不必要な証言者を整理せよ。
整理。
その言葉が何を意味するか、ガレスは知っている。
だが、今ヴィクトル・グレインに手を出せば、レーヴェン団長側の警戒を一気に強める。ノルベルトにも触れにくい。旧結界具は団長直轄。
使えるのは、マティアスだけ。
いや、マティアスも、そろそろ危ない。
「駒が勝手に考え始めると、盤面が乱れる」
ガレスは低く呟いた。
しかし、その声には焦りが滲んでいた。
その頃、マティアスは呼び出しを受け、廊下を歩いていた。
行き先はオルブライト副団長の執務室。
足取りはいつも通り。
だが、胸の中はひどく乱れていた。
カード。
ノルベルトの保護。
礼拝室に隠した封筒。
外部の影。
そして、ガレスからの呼び出し。
自分は今、三つの手に引かれている。
オルブライト副団長。
レーヴェン団長側。
セーヴァルト侯爵側。
どれかを選ばなければ、いずれ潰される。
だが、どれを選んでもただでは済まない。
マティアスは扉の前で足を止めた。
中から、ガレスの声がする。
「入れ」
マティアスは一度だけ目を閉じた。
そして扉を開けた。
王都騎士団の中で、二年前の事故を覆っていた蓋は、もう静かに軋み始めていた。




