古い記録は守らない 1
マティアスがそのカードを見つけたのは、夜明け前だった。
宿舎の廊下はまだ薄暗く、窓の外には王都の朝靄が沈んでいる。遠征帰りの騎士たちは眠っている時間で、廊下を歩く者などほとんどいない。
それなのに、扉の下に、何かが差し込まれていた。
小さな黒いカード。
マティアスは一瞬、呼吸を止めた。
誰かが来た。
この部屋の前まで。
昨夜聞いた、あの足音。
彼は剣の柄へ手をかけながら、カードを拾い上げた。
表には、薄い銀色の魔術印が押されている。
騎士団の印ではない。
レーヴェン団長のものでもない。
ヘルムート副官が使う公的な確認印でもない。
オルブライト副団長の執務印でもない。
だが、見覚えがないわけではなかった。
貴族の私的な連絡に使われる、あいまいな封じ印。
家名を出さず、しかし見る者が見れば「王都の上流に属するもの」と分かる、嫌な種類の印だった。
カードの裏に、短い一文がある。
――古い記録は、持ち主を守らない。
マティアスの指が冷たくなった。
手帳。
あの手帳のことを言っているのか。
二年前の事故当日の走り書き。
中央白石板。
初記録紙。
記録係交代。
G指示。
誰が知っている。
オルブライト副団長か。
いや、ガレスならこんな回りくどい脅しはしない。自分を呼び出し、静かな声で確認する。そういう男だ。
レーヴェン団長側か。
それも違う。ヘルムート副官なら、こんなカードを扉の下に差し込むような真似はしない。記録を取り、呼び出し、逃げ場を閉じる。
では、誰だ。
マティアスはカードの魔術印を睨んだ。
騎士団の外。
オルブライト副団長のさらに外側。
彼を引き上げた政治筋。
――セーヴァルト侯爵。
名を思い浮かべた瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。
マティアスはすぐに手帳を取り出した。
引き出しの奥。二重底の下。布に包んだ古い革手帳。
無事だった。
誰かが部屋に入った形跡はない。鍵もそのまま。机も動いていない。
だが、それで安心できるはずがなかった。
相手は部屋に入らず、ただカードだけを置いていった。
つまり、見ている。
持っていると知っている。
あるいは、持っているかもしれないと疑っている。
それだけで十分だった。
マティアスは手帳を開き、何枚かの紙片を抜き取った。
二年前の日付の走り書き。
事故当日の人員配置。
記録係ノルベルトの名。
中央白石板の異常。
そして、ガレス・オルブライト副団長を示すために書いた、たった一文字の「G」。
この手帳を丸ごと失えば終わる。
だが、このまま部屋に置いていても終わる。
マティアスは迷った末、一枚だけ別の封筒へ移した。
もっとも危険で、もっとも価値がある紙。
――中央白石板、黒沈み。
――初記録紙、ノルベルト。
――回収。
――G指示、記述削除。
封筒には宛名を書かない。
ただ、封の内側に小さく印をつけた。
自分にしか分からない印。
「まだ渡さない」
マティアスは低く呟いた。
レーヴェン団長側へ駆け込めば、自白に近い。
オルブライト副団長へ渡せば、握り潰される。
侯爵側に渡せば、用済みにされる。
なら、まだ持っているしかない。
だが、持ち続ければ狙われる。
どちらへ転んでも、自分はもう安全な場所にはいなかった。
その日の午前、マティアスは平静を装って騎士団本部へ出た。
遠征報告の修正。装備点検。部下への指示。
いつも通りの業務をこなしながら、彼は誰の視線が自分に向いているかを探った。
ヘルムート副官の部下がいる。
ユアンも遠くからこちらを見た。
オルブライト副団長の使いも一度廊下を通った。
そして、そのどれとも違う視線がある。
騎士ではない。
事務官でもない。
来客用の外套を着た、目立たない男。
騎士団本部に出入りする貴族家の使いの一人に紛れている。
マティアスと目が合うと、その男はすぐに視線を外した。
その一瞬で分かった。
カードを置いたのは、あの男ではないかもしれない。
だが、同じ筋の者だ。
マティアスは歯を食いしばった。
侯爵側は、オルブライト副団長すら信用していない。
自分を、オルブライト副団長を通さずに見ている。
それはつまり、いざとなれば、ガレスもろとも切り捨てる準備があるということだった。




