レイドの手帳 3
その夜、マティアスは宿舎の自室で手帳を見つめていた。
ガレスには、ノルベルトの記憶が曖昧だと伝えた。
嘘はついた。
だが、それは自分を守るためだ。
ガレスが本当に自分を守るつもりなら、二年前の時点でこんな手帳など必要なかった。
今になって自分を呼び出したのは、利用するためだ。
切り捨てる準備もしているはずだ。
マティアスは小さな鍵付き箱を開けた。
手帳をそのまま置いておくのは危険だ。
だが、どこかへ移すにも見張られている可能性がある。
彼は手帳から一枚だけ紙を抜いた。
二年前の事故当日の走り書き。
それを別の封筒へ入れる。
宛名は書かない。
ただ、封の内側に小さく印をつけた。
万一、自分が拘束されるか、消されるかした時に、これが外へ出るようにしなければならない。
誰へ送るべきか。
ガレスではない。
レーヴェン団長でもない。
ヘルムート副官でもない。
まだ決めきれない。
マティアスは封筒を手にしたまま、深く息を吐いた。
その時、外で小さな物音がした。
彼は瞬時に手帳を閉じた。
扉へ目を向ける。
「誰だ」
返事はない。
ただ、廊下の向こうで足音が遠ざかる。
見られている。
ガレス側か。
団長側か。
それとも、別の誰かか。
マティアスの額に汗が浮いた。
盤面を動かしているつもりだった。
だが自分自身もまた、誰かの目の中にいる。
翌朝、ノルベルトはヘルムート副官の執務室へ呼ばれた。
呼び出し名目は、過去記録の整理確認。
聴取ではない。
だが、ノルベルトは扉を開けた瞬間、何かを察したように青ざめた。
ヘルムートは穏やかに椅子を勧めた。
「座りなさい。責めるために呼んだわけではありません」
「……はい」
「二年前の訓練場記録について、補足確認をしたいだけです」
ノルベルトの手が膝の上で震えている。
ヘルムートは筆を取った。
「昨日、レイド卿があなたを訪ねましたね」
ノルベルトは息を呑んだ。
「はい」
「何を聞かれましたか」
「……二年前の事故記録について、誰かに聞かれたか、と」
「あなたは何と答えましたか」
「まだ誰にも、と」
「それは本当ですか」
ノルベルトは沈黙した。
ヘルムートは声を荒げなかった。
「あなたが怯えているのは分かります。ですが、今ここで黙ると、二年前と同じことが起きます。記録が消され、見た者が黙り、怪我をした者だけが取り残される」
ノルベルトの唇が震えた。
「私は……あの日、最初の記録を書きました」
ヘルムートの筆が静かに動き始める。
「続けなさい」
「結界具の中央白石板に異常、と書きました。黒く沈んだ、とも。けれど、その紙はレイド卿が持っていきました。戻ってきた写しには、中央白石板のことが消えていました」
「レイド卿は、誰かの指示で動いている様子でしたか」
「分かりません。でも……」
「でも?」
ノルベルトは目を閉じた。
「彼は、紙を持っていく前に、誰かと話していました。訓練場の外で。声は聞こえませんでした。でも、その相手を見て、すぐに姿勢を正していた」
「相手の顔は?」
ノルベルトは首を振った。
「はっきりとは。ただ、騎士団の上位者でした。下級騎士に向ける態度ではなかった」
ヘルムートは頷いた。
「十分です」
ノルベルトは顔を上げる。
「私は、どうなるんですか」
「あなたは保護対象です。表向きは記録整理中の体調不良として、しばらく配置を外します」
「保護……」
「監視も含みます」
ヘルムートの言葉は正確だった。
ノルベルトは弱く笑った。
「正直ですね」
「嘘をつく場面ではありません」
ヘルムート副官は、ノルベルトの聴取記録を封じ、レーヴェン団長へ提出した。
アルベルトは一読し、目を閉じた。
「中央白石板」
「旧結界具の解析結果と一致します」
ユアンが低く言った。
「ヴィクトルの証言とも」
ヘルムートは続ける。
「レイドは、最初の記録紙を持ち去っています。ガレス……いえ、オルブライト副団長との直接接触はまだ証明できませんが、上位者の指示を受けて動いた可能性が高い」
アルベルトは机に手を置いた。
「マティアスは、オルブライト副団長にこの情報を伏せているな」
「おそらく」
「なぜだ」
ユアンが答える。
「保険です。自分が切られた時のために、情報を握っている」
ヘルムートも頷いた。
「つまり、彼は両側を掻き回す。オルブライト副団長には従うふりをし、こちらには捕まらないよう逃げ道を作る」
「厄介だな」
アルベルトは低く言った。
だが、その目にはわずかな光があった。
「だが、割れる駒だ」
ユアンは頷く。
「追い詰めすぎず、逃げ道を見せれば、自分から何かを差し出すかもしれません」
ヘルムートが静かに付け加える。
「ただし、その前にオルブライト副団長が切り捨てに動く可能性があります」
部屋に沈黙が落ちた。
アルベルトは決断した。
「マティアスを今は拘束しない。だが、彼の手帳を探れ。証拠として押さえるのは最後でいい。まず、誰に渡そうとするかを見る」
「承知しました」
ヘルムート副官は一礼した。
その日の夜、ガレス・オルブライト副団長のもとに、マティアスから短い報告が入った。
――下級記録係に目立った動揺なし。
――団長側の聴取はまだ限定的。
――旧結界具の保管場所、詳細不明。
――ヴィクトル・グレインの所在、引き続き確認中。
ガレスはその報告を読み、目を細めた。
整いすぎている。
マティアスは昔から実務能力がある。だが、今の報告には妙な空白がある。
何かを掴んだ者は、何も掴んでいないふりをする時、こういう書き方をする。
「レイド……」
ガレスは低く呟いた。
駒が、盤面の上で勝手に動き始めている。
それは危険だった。
だが、今すぐ切るには惜しい。
二年前の記録へ繋がる手足として、まだ使える。
使えるものは使う。
使えなくなれば、捨てる。
ガレスは報告書を折りたたみ、机の奥へしまった。
外では、王都の夜が深まっている。
団長側も、ガレス側も、マティアス自身も、それぞれが相手を利用しようとしていた。
そして誰もまだ知らない。
マティアスの古い手帳が、二年前の事故に最も近い場所で、静かに眠っていることを。




