レイドの手帳 2
廊下を曲がったところで、マティアスは足を止めた。
自分の手が汗ばんでいる。
ノルベルトは覚えていた。
中央白石板。
最初の記録紙。
自分が持ち去ったこと。
まずい。
だが、同時に使える。
ノルベルトはまだ誰にも話していない。少なくとも、そう言った。
本当かどうかは分からない。
だが、彼が持っている情報は、ガレスにも黙っておくべきだとマティアスは判断した。
オルブライト副団長にそのまま報告すれば、ノルベルトは消されるかもしれない。あるいは、証言できない状態にされるかもしれない。
そうなれば、自分につながる線も消える。
だが同時に、自分がガレスに切り捨てられた時の保険も消える。
マティアスは小さく息を吐いた。
「……まだ渡せない」
彼は自室へ戻ると、引き出しの奥から古い手帳を取り出した。
二年前の日付。
そこには、走り書きが残っている。
――中央白石板、黒沈み。
――初記録紙、ノルベルト。
――回収。
――G指示、記述削除。
――記録係交代。
G。
ガレスの名を書かなかったのは、当時の自分の慎重さだった。
今となっては、それが保険にも、弱さにも見える。
マティアスは新しい紙を一枚取り、短く書いた。
――ノルベルト、初記録を記憶。
――未聴取の可能性あり。
――副団長には伏せる。
書いてから、彼はそれを手帳へ挟んだ。
この手帳は、命綱だ。
だが、持っているだけで首を絞める縄にもなる。
その日の午後、マティアスはオルブライト副団長の執務室を訪ねた。
ガレスは机の向こうで書類を読んでいた。
「どうだった」
顔を上げずに問う。
マティアスは一礼する。
「当時の下級記録係にそれとなく確認しました。記憶は曖昧です。二年前の混乱もあり、明確な証言にはならないかと」
嘘ではない。
ノルベルトは怯えていた。
混乱していた。
明確な証言になるかは分からない。
だが、核心は隠した。
ガレスは顔を上げる。
「本当に曖昧なのか」
「少なくとも、団長側がすぐ使えるほどではありません」
マティアスは落ち着いた声で答えた。
ガレスの目が、彼を探るように細くなる。
「ヴィクトルは?」
「所在は掴めません。体調不良として待機扱いだそうですが、実際には団長室預かりかと」
「やはりな」
ガレスは書類を置いた。
「旧結界具は?」
「団長直轄の保管に移されたようです。ヘルムート副官の許可なしでは見られません」
「……ヘルムートか」
ガレスの声に、わずかな苛立ちが滲んだ。
オスカー・ヘルムート。
あの副官は厄介だった。
感情で動かない。命令系統を守る。記録を残す。派手な手柄を求めない代わりに、足元を絶対に見逃さない。
ガレスはマティアスを見た。
「当時の関係者には、お前から釘を刺しておけ」
「承知しました」
「ただし、露骨に動くな。レーヴェン団長は今、こちらの動きを見ている」
「分かっています」
マティアスは頭を下げた。
「必要であれば、遠征記録の整理を理由に、当時の人員と接触します」
「そうしろ」
その返答を聞き、マティアスは部屋を出た。
背中にガレスの視線を感じる。
信用されていない。
当然だ。
自分もまた、彼を信用していないのだから。
その頃、団長室では、ヘルムート副官が一枚の報告書をレーヴェン団長へ差し出していた。
「マティアス・レイドが第二記録室へ入りました。相手はノルベルト。事故当日の下級記録係です」
アルベルト・レーヴェンは報告書を受け取った。
「接触したか」
「はい。短時間ですが、二人きりで話しています」
「その後は?」
「オルブライト副団長の執務室へ向かいました」
ユアンが壁際で腕を組んでいた。
「順番が分かりやすいな」
ヘルムートは頷く。
「ただし、レイドの報告内容までは分かりません」
「ノルベルトは押さえたか」
「まだです。マティアスとの接触直後にこちらが呼べば、警戒されます。少し置きます」
アルベルトは静かに言った。
「マティアスは何かを得たな」
「おそらく」
ヘルムートの声は冷静だった。
「何も得られなかった者の足取りではありませんでした。記録室を出た後、自室へ戻っています。その後、オルブライト副団長へ報告。間に何かを確認した可能性があります」
ユアンが目を細める。
「自室か」
「以前、旧手帳らしきものを確認しています」
アルベルトは報告書を机に置いた。
「手帳を持っているなら、マティアスはただの駒ではない」
「ええ」
ヘルムートは淡々と続けた。
「オルブライト副団長に完全に従属しているなら、手帳など残しません。保険として持っている可能性があります」
ユアンが低く言った。
「つまり、彼はガレスにも嘘をつく」
「十分あり得ます」
アルベルトはしばらく沈黙した。
マティアスを今すぐ拘束すれば、手帳を押さえられるかもしれない。
だが、それではガレスへ伸びる線が切れる。
逆に泳がせれば、マティアスは自分の保身のためにさらに動く。その動きが、隠された記録や関係者を浮かび上がらせる可能性がある。
「泳がせる」
レーヴェン団長は決めた。
「ただし、ノルベルトは保護しろ。表向きは体調不良でも何でもいい。マティアスが二度目に接触する前に、こちらで話を聞く」
「承知しました」
ヘルムートが答える。
ユアンはすぐに言った。
「私が聞きますか」
「いや」
アルベルトは首を横に振った。
「最初はオスカーだ。ノルベルトは怯えているだろう。ユアンが行けば、調査だと身構える」
ユアンは少しだけ苦笑した。
「私はそんなに怖いですか」
「今はな」
ヘルムートは小さく咳払いをした。
「では、私が記録整理の確認として呼びます。聴取ではなく、補足確認という形で」
「そうしろ」




