レイドの手帳 1
マティアス・レイドは、騎士団本部の廊下を歩きながら、自分の足音がやけに大きく響いている気がした。
第五遠征隊の帰還から二日。
表向きには、遠征報告と装備点検、部下たちの休養手配に追われているだけだった。けれどその裏で、彼はガレス・オルブライト副団長から命じられた別の仕事を抱えていた。
二年前の事故記録。
エリオット・バーンスタンの右腕を奪った、あの訓練場の事故。
そして、今さらそれを掘り返しているレーヴェン団長側の動き。
マティアスは、すれ違う騎士たちへいつも通りの顔で頷いた。
落ち着け。
自分は主犯ではない。
命じられた通りに動いただけだ。
記録係を交代させた。
結界具の点検記録を整理した。
余計な混乱を避けるため、見た者に口を閉じるよう促した。
それだけだ。
そう言い聞かせても、胃の奥は冷えていた。
騎士団で「それだけ」という言葉ほど信用ならないものはない。
最初にマティアスが向かったのは、第二記録室だった。
二年前、事故当日の訓練場記録を実際に書いていた下級記録係の一人――ノルベルトという男が、今はこの部屋で日常記録の整理をしている。
小柄で、神経質そうな男だった。
マティアスが入ってくると、ノルベルトは明らかに肩を跳ねさせた。
「レイド卿……遠征から戻られたのですね」
「ああ。少し確認したいことがあってな」
マティアスは扉を閉めた。
鍵はかけない。
だが、声を潜める。
「二年前のバーンスタンの事故記録について、誰かに聞かれたか」
ノルベルトの顔色が変わった。
「い、いえ。まだ、私は」
「まだ?」
マティアスは穏やかに聞き返した。
ノルベルトはすぐに口を噤む。
その反応で十分だった。
すでに何かが動いている。
ヘルムート副官か。
クロフォードか。
それとも団長直轄の別の記録官か。
マティアスは声を柔らかくした。
「責めているわけではない。ただ、古い事故記録を掘り返す者がいる。記憶違いで余計な混乱が起きるのは避けたい」
「記憶違い……」
「二年前は混乱していた。お前も若かった。誰が何を命じたか、正確に覚えていなくても無理はない」
ノルベルトの指が震えた。
「私は、命じられた通りに写しを作っただけです」
「誰に?」
問いは自然に落とした。
だが、ノルベルトは答えなかった。
マティアスはさらに近づく。
「誰に命じられた?」
「……レイド卿」
ノルベルトの声は掠れていた。
「あの時、あなたもいました」
部屋の空気が止まった。
マティアスは微笑を保った。
「そうだな。私は事故後の人員整理に加わっていた」
「違います」
ノルベルトは、怯えながらも小さく首を振った。
「あなたは、最初の記録紙を持っていきました。結界具の中央白石板に異常、と書いた紙です。そのあと、戻ってきた写しには、その記述がなくなっていました」
マティアスの喉が乾いた。
この男は覚えている。
忘れていなかった。
「ノルベルト」
マティアスは低く言った。
「その話は、誰かにしたか」
「まだ誰にも」
「本当に?」
「……ヘルムート副官の部下が、近いうちに話を聞くかもしれないと」
マティアスは内心で舌打ちした。
早い。
レーヴェン団長側は、すでに記録係へ手を伸ばしている。
「いいか。余計なことは言うな。あの時の記録は混乱していた。お前は自分が書いた内容を、今になって正確に思い出せるほど落ち着いてはいなかった。そうだな?」
ノルベルトは青ざめたまま黙った。
マティアスはさらに言う。
「これは脅しではない。お前を守るためだ。二年前の事故に関わったと見なされれば、お前もただでは済まない」
「私は……私は、書いただけです」
「だからだ」
マティアスは優しく言った。
「書いただけの者が、上の判断に巻き込まれる必要はない」
ノルベルトは震えていた。
マティアスはそこで話を切り上げた。
これ以上押せば、逆に崩れる。
部屋を出る直前、彼は振り返った。
「ヘルムート副官に聞かれたら、覚えている範囲で答えればいい。ただし、不確かなことを断定するな」
それだけ言って、彼は記録室を出た。




