戻ってきた駒 1
王都騎士団本部に、第五遠征隊が帰還したのは、旧結界具が団長直轄の保管室へ移された翌日のことだった。
北方街道の警備と魔獣掃討を終えた一団は、砂埃と疲労をまとって騎士団の中庭へ入った。鎧には細かな傷があり、馬の背には荷が積まれている。出迎えた下級騎士たちが慌ただしく動く中、一人の男が馬から降りた。
マティアス・レイド。
三十代前半。第五遠征隊で副隊長格を務める騎士で、実務能力は高い。命令をこなし、人を動かし、書類も読める。現場では重宝される男だった。
だが、彼の名は、二年前のエリオット・バーンスタンの事故記録の端にも残っていた。
訓練場の記録係交代。
結界具点検記録の確認。
事故後の人員整理。
表向きは、ただの補助業務。
だが、ユアンはすでに気づいていた。
ヴィクトルが人員名簿を前にした時、喉を詰まらせた名の近くに、マティアス・レイドがいたことを。
帰還報告を終えたマティアスは、鎧を解くより先に、騎士団本部内の空気がいつもと違うことに気づいた。
人の動きが静かすぎる。
記録保管室の前には、普段より見張りが多い。
旧備品倉庫の棚札がいくつか外されている。
そして、団長室へ向かう廊下に、ヘルムート副官の部下が立っていた。
マティアスは、近くにいた騎士へ声をかけた。
「何かあったのか」
「古い備品の再点検だそうです」
「古い備品?」
「訓練場の結界具とか、そのあたりだと聞きました」
マティアスの指が、ほんのわずかに止まった。
結界具。
その言葉が、二年前の訓練場の白い光を思い出させる。
そして、その白が一瞬だけ黒く沈んだ光景を。
彼は表情を変えなかった。
「そうか。遠征中にいろいろあったらしいな」
「ええ。詳しいことは、ヘルムート副官の許可がないと分からないそうです」
「ヘルムート副官の?」
マティアスは軽く笑った。
「ずいぶん厳重だな」
騎士は肩をすくめた。
「団長直轄だそうです」
その言葉で、マティアスの背中に冷たいものが走った。
その日の夕方、マティアスはガレス副団長の執務室へ呼ばれた。
ガレスはいつも通りだった。
整えられた軍服。乱れのない机。落ち着いた声。
だが、長く側にいた者なら分かる。彼の静けさは、機嫌の良さではない。張りつめた糸のようなものだった。
「遠征、ご苦労だったな」
「ありがとうございます」
マティアスは一礼した。
「北方街道の被害は?」
「予定より軽微です。報告書は明朝までに提出します」
「そうか」
ガレスは薄く頷いた後、机の上に置かれた封書へ視線を落とした。
「ところで、戻って早々で悪いが、少し確認してもらいたい件がある」
来た。
マティアスはそう思った。
「何でしょう」
「二年前のバーンスタンの事故記録が、また掘り返されている」
その名を聞いた瞬間、マティアスの喉がわずかに乾いた。
エリオット・バーンスタン。
将来を嘱望されていた騎士。
右腕を失い、騎士団を離れた男。
そして、二年前、自分が記録の後始末に関わった事故。
「今さら、ですか」
マティアスは慎重に言った。
「今さらだ」
ガレスの声は静かだった。
「だが、団長が動いている。ヘルムートが記録を絞り、ユアンがヴィクトルを再聴取した」
「ヴィクトルを」
「ああ」
ガレスは机の上で指を組む。
「さらに、魔術院の者が出入りしている。コックスという研究員と、オルガという女だ」
マティアスはその名を知らなかった。
だが、魔術院という言葉だけで十分だった。
魔術院が関わる。
つまり、二年前のあれが単なる記録上の不備では済まない可能性がある。
「副団長」
「何だ」
「ヴィクトルは、どこまで」
マティアスは言いかけて、口を閉じた。
ガレスの目が少しだけ細くなる。
「それを知るために、お前を呼んだ」
マティアスは息を止めた。
「私は遠征から戻ったばかりです。団長室の動きに触れる立場では」
「正面から触れろとは言っていない」
ガレスは淡々と言う。
「旧記録の再点検で、当時の補助記録に確認が入る可能性がある。お前は二年前、訓練場周辺の整理に関わった。誰が今さら何を聞き回っているのか、自然に探れるはずだ」
「……承知しました」
「それと、当時の下級記録係が数名いる。彼らが余計なことを思い出さないよう、様子を見ておけ」
命令は柔らかい。
しかし意味は明確だった。
口裏を合わせろ。
動揺している者がいれば、黙らせろ。
必要なら、別の記憶を与えろ。
マティアスは一礼した。
「分かりました」
立ち去ろうとした時、ガレスがもう一度口を開いた。
「マティアス」
「はい」
「二年前のことは、もう終わったことだ」
マティアスは振り返らないまま、短く答えた。
「……はい」
だが、そうは思えなかった。
終わったことなら、なぜ団長が動く。
なぜ旧結界具が移された。
なぜ魔術院が入った。
そしてなぜ、ガレスは自分を呼んだ。




