喉に残る印章 2
同じ頃、王立魔術院の一室では、旧結界具の解析が始まっていた。
訓練場から移された結界具は、重い木箱の中に封じられている。外側には騎士団の古い封印が掛けられていたが、ヘルムート副官の権限で開封許可が下りていた。
ライヘルは白い手袋をはめ、慎重に蓋を開けた。
中には、結界具の基部と白石板が収められている。
二年が経っている。
通常なら、微細な術式痕はかなり薄れているはずだった。
だが、白石板の中央に細く黒い影が残っていた。
ライヘルの顔が強張る。
「……残っています」
オルガが覗き込む。
「自然劣化?」
「違います。白石板の劣化なら縁から崩れる。これは中央から、流れを折った跡です」
ライヘルは細針を近づけた。
白石板の上に、薄い黒い線が浮かぶ。
それは折れた線だった。
結界の流路が、本来なら円を描いて広がるはずの場所で、一瞬だけ内側へ曲げられている。
「黒系屈曲痕」
ライヘルは低く言った。
「しかも、かなり短時間です。破壊ではない。結界を壊さず、一瞬だけ剣筋と魔力の流れを逸らすための干渉」
オルガは古記録を広げた。
「騎士の動作に遅れを作る黒系術式。古い禁術目録にも似た記述がある。直接殺すんじゃなくて、事故に見せるための術式」
「ええ」
ライヘルは白石板の影を見つめた。
「ヴィクトル氏の“黒く沈んだ”という証言は、比喩ではない可能性が高い」
その時、扉が叩かれた。
騎士団からの使いだった。
「コックス研究員、オルガ研究員。団長室より至急。ヴィクトル再聴取中、口封じの残滓と思われる症状が出ています」
ライヘルとオルガは顔を見合わせた。
「印章の残りか」
オルガが呟く。
ライヘルは旧結界具を封じ直した。
「行きましょう」
小会議室へ入ったライヘルは、まずヴィクトルの顔色を見た。
青い。
恐怖だけではない。
喉元と舌の魔力路が、弱く痙攣している。
「発言を止める術式ですね」
ライヘルは椅子の横に立ち、すぐに判断した。
「印章そのものは回収済みですが、命令痕が残っています。特定の名前、役職、行為を口にしようとした時だけ反応する型です」
ヴィクトルが苦しげに笑った。
「便利なことをしてくれたもんですね」
「笑える状態ではありません」
ライヘルは淡々と言った。
「無理に言葉にすると、喉と舌の魔力路を傷めます。最悪、声が出なくなる」
ヴィクトルの笑みが消えた。
オルガは記録紙を一枚取り出した。
「名前を言えないなら、迂回しましょう。選択式、指差し、頷き。口封じは“言葉”に強く反応するはずです」
アルベルトが頷く。
「続けろ」
ユアンは騎士団の人員表を広げた。
「事故当時、訓練場記録に関われた者を絞ります。ヴィクトル、声を出さなくていい。見覚えがあれば、指で示せ」
ヴィクトルはしばらく躊躇した。
だが、アルベルトの視線から逃げられないと悟ったのか、ゆっくりと人員表へ目を落とした。
指が滑る。
一人目。
二人目。
三人目。
そして、ある欄の近くで止まった。
完全には触れない。
触れようとすると、また喉が詰まるらしい。
ライヘルがすぐに言った。
「その名に反応しています。指差しにも弱く干渉が出る。かなり細かい命令痕です」
ヘルムート副官がその欄を見た。
表情は変えなかった。
だが、筆を持つ指に力が入った。
「この人物は、事故当時、訓練場周辺の記録確認権限を持っていました」
ユアンが問う。
「その人物が、記録係の交代を命じた?」
ヴィクトルは頷こうとして、苦痛に顔を歪めた。
ライヘルが止める。
「頷くのもこれ以上は危険です」
オルガは別の紙を出した。
「では質問を変えます。ヴィクトルさん、あなたはその人物から直接印章を受け取った?」
ヴィクトルは答えられない。
だが、目だけが肯定していた。
ユアンはそれを見逃さなかった。
「記録には、“明確な発声不可。質問への身体反応あり”と残せ」
ヘルムートが頷く。
「残します」
ライヘルは、印章の残滓をもう少し詳しく調べた。
ヴィクトルの喉元に細い白石針をかざすと、薄い黒い輪が浮かび上がる。
輪は閉じきっていない。
印章が回収されたことで核は失われている。
それでも、命令の跡だけが喉に残っていた。
「これは沈黙を強制するというより、特定情報の発声を妨害する術式です」
ライヘルは説明した。
「名、命令内容、印章の授受。その三つに強く反応する。逆に、状況説明や位置情報は比較的話せる」
アルベルトが低く言った。
「だから、結界が黒く沈んだことは話せた」
「はい。術式が禁じている対象ではないからです」
ユアンは静かに息を吐いた。
「都合がいい口封じだな」
「相手は、彼が何を見たかより、誰が関わったかを隠したかったのでしょう」
ライヘルの声は硬かった。
アルベルトの目に、冷たい怒りが宿る。
「つまり、二年前の事故直後から、隠すべき相手がいた」
誰も答えなかった。
答える必要がなかった。




