団長室の照合 1
王都騎士団本部の記録保管室には、古い紙と革表紙の匂いが染みついていた。
ユアン・クロフォードは、二年前の訓練記録を机に広げたまま、何度目か分からない照合作業を続けていた。
エリオット・バーンスタンの事故。
公式記録では、訓練中の結界不調と剣の軌道逸脱が重なった不運な事故。
それだけで片づけられている。
だが、ヴィクトルの証言は違った。
――結界が、一瞬だけ黒く沈んだ。
――エリオットの剣筋が、その直後に逸れた。
――救護班が来るまでの間に、記録係が変わっていた気がする。
――余計なことを言うな、と後で釘を刺された。
厄介な証言だった。
ヴィクトルは信用しきれない。
都合の悪い部分は濁すし、自分に責任が及びそうになると、話をすり替える。
だが、完全な嘘つきでもない。
ユアンは、その面倒くささが何より厄介だと思っていた。
「ヴィクトルの証言だけなら、まだ弱い」
ユアンが呟いた時、記録保管室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、ヘルムート副官だった。
アルベルト騎士団長の側近であり、団長室の実務、記録、内部調査の段取りを一手に引き受けている男だ。
「ユアン。魔術院から来客だ」
「ライヘル・コックスですか」
「それと、オルガという研究員だ。古記録の照合担当だと言っている」
ユアンは記録を閉じた。
「団長は?」
「団長室で待っている。お前も来い。二年前の事故記録と、魔術院側の解析を突き合わせる」
ユアンは一瞬だけ、机の上の記録に視線を落とした。
黒く沈んだ結界。
公式記録から消えた異常。
そして、地方で見つかり始めた黒系媒介。
「分かりました」
団長室には、すでにアルベルト団長がいた。
重厚な机の向こうに座る彼の表情は、いつも以上に硬い。
隣にはヘルムート副官。机の上には、二年前の事故記録の写し、ヴィクトルの証言書、訓練場の結界配置図が置かれている。
そこへ、ライヘルとオルガが通された。
ライヘルは疲れた顔をしていた。目の下には薄い隈がある。だが、持ってきた資料を置く手つきは乱れていない。
オルガはその隣に立ち、古い革鞄を抱えていた。
アルベルトが口を開く。
「ユアンから聞いている。魔術院側に、二年前の事故と関わる可能性のある解析結果が出たと」
「はい」
ライヘルは静かに答えた。
「ただし、最初に申し上げます。私が提示できるのは、事故当時の直接証拠ではありません。現在、地方で確認された黒系媒介と、エリオット・バーンスタンの事故記録、そしてヴィクトル氏の証言を照合した場合に浮かび上がる可能性です」
ヘルムート副官が目を細める。
「可能性、ですか」
「ええ。ですが、無視できる程度のものではありません」
アルベルトは短く頷いた。
「続けろ」
ライヘルは机の上に、一枚の反応写しを置いた。
「これは、エルダント治療院で確認された偽白樹脂片の反応写しです。黒系術式の屈曲構造に、白系反応に似せた偽装波が重ねられています」
ヘルムートが問う。
「白系に似せる理由は?」
「白い反応を持つ術者を誘導、または測定するためです。白く見えるが、実際には流れがない。反応だけを引き出し、観測する構造です」
アルベルトの眉がわずかに動いた。
「治療院の患者を使ってか」
「はい」
ライヘルの声が冷えた。
「薬効を鈍らせ、治療反応を引き出す媒介も確認されています。患者を治療対象ではなく、条件として扱う術式です」
オルガが鞄から別の資料を取り出した。
「こちらは、古記録の写しです。黒系術式そのものは、封印や隔離に使われる正当な分野もあります。問題は、今回のものが“封じる”ためではなく、“曲げて観測する”ために作られていることです」
ユアンが低く言った。
「セヴラン系か」
ライヘルはユアンを見る。
「断定には慎重であるべきです。ただ、思想は極めて近い。魔力路を曲げ、反応を遅らせ、命令痕を残す。セヴラン・ノックスの論文に見られる構造と一致する箇所があります」
団長室に、重い沈黙が落ちた。
ユアンはヴィクトルの証言書を開いた。
「ヴィクトルは、事故直前に結界が黒く沈んだ、と証言しています」
ヘルムート副官が補足する。
「ただし、証言には曖昧な点が多い。当時の自分の位置、誰が結界具に近づいたか、事故後に誰から口止めを受けたか。肝心なところを濁している」
「自己保身でしょう」
ユアンは淡々と言った。
「ですが、結界の黒い沈みについては、何度聞いても証言がぶれません」
ライヘルが結界配置図を見た。
「訓練用結界が一瞬だけ黒く沈む。これが視覚的な印象ではなく、黒系屈曲術式による干渉だった場合、説明はつきます」
「どういう意味だ」
アルベルトが問う。
「結界そのものを壊すのではなく、ほんの一瞬だけ流れを曲げる。対象の動作、魔力、剣筋にわずかな遅れや逸れを生じさせる。事故に見せるには十分です」
ユアンの手が、記録紙の端を押さえた。
「エリオットの剣筋が逸れた」
「はい。しかも、その直後に右腕へ封鎖系の反応が残ったのであれば、単なる結界事故では説明が難しい」
ヘルムート副官がすぐに反応した。
「現在のエリオット・バーンスタンの治療経過を、あなたは把握しているのですか」
ライヘルは一瞬沈黙した。
「必要な範囲で」
「妹君が同行しているからですか」
空気が、ぴりりと張った。
ユアンがヘルムートを見る。
だが、ライヘルは逃げなかった。
「はい。私の妹が彼の治療に関わっています。ですから、私の判断に感情が混じる可能性を疑うのは当然です」
ヘルムートはライヘルを見据えた。
「では聞きます。あなたは妹君の件で、判断が偏っていないと言い切れますか」
ライヘルが答える前に、オルガが口を開いた。
「偏っています」
ライヘルが横を見る。
「オルガ室長」
「事実でしょ」
オルガは肩をすくめた後、アルベルトとヘルムートへ向き直った。
「ただし、解析は偏っていません。彼はむしろ、否定したくて否定材料を探し尽くしました。白石布の保存劣化、水の混入反応、地方伝承との偶然一致、治癒魔法の特殊変異、全部検討しています。その上で残ったのが、今の結論です」
ヘルムートは黙った。
オルガはさらに資料を広げる。
「私の担当は古記録の照合です。サリア地方の水祠記録、王都古文庫の白花写本、王家保管目録の写し。独立した三つの記録に、“白花”“水を戻す手”“傷ついた剣”の記述が残っています。伝承だけなら眉唾ですが、現物の反応写しと重なりすぎています」
アルベルトが低く言う。
「つまり、エリオットの事故と、現在地方で起きている黒系術式の事件が繋がる可能性がある」
「はい」
ライヘルが答えた。
「少なくとも、同じ思想を持つ術式です」




