旅立ちの朝 1
旅立ちの朝、村はいつもより少しだけ早く目を覚ました。
夜明け前の空はまだ薄青く、畑には朝露が降りている。家々の煙突から細い煙が上がり、鶏の鳴き声と、井戸の滑車が軋む音が静かな村に響いていた。
ミラは、診療所代わりに借りていた空き家の床を掃いていた。
元薬師の家だったその空き家には、来たばかりの頃よりもずいぶん生活の跡が増えている。薬草の匂いが染みた棚。窓辺に置いた白花の小瓶。机の上に残る小さな傷。村人たちが持ってきてくれた籠の跡。
ここで何人もの患者を診た。
ここでエリオットの右腕に初めて変化を見た。
ここで兄への手紙を書いた。
ここで、白い刃の光を記録した。
短い滞在だったはずなのに、振り返ると、ずいぶん長くいたような気がする。
ミラは箒を壁に立てかけ、最後に机を拭いた。
その机には、もう治療道具はほとんど残っていない。
包帯、薬草、軟膏、小型の魔力結晶、泉の水、白花、帳面。
必要なものはすべて鞄に収めた。
それでも、鞄は来た時より重い。
道具が増えたからだけではない。
ミラは胸元の白花のペンダントに触れた。
この村で知ったこと。
まだ分からないこと。
これから知りに行かなければならないこと。
それらも一緒に、荷物になっている気がした。
扉の外から、声がした。
「ミラさん、起きてるかい?」
村長の妻の声だった。
ミラが扉を開けると、彼女は大きな布包みを抱えて立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。これ、道中で食べなさい」
「またですか?」
「またですよ」
村長の妻は有無を言わせぬ顔で布包みを差し出した。
中には焼きたてのパン、干し肉、山羊乳で作ったチーズ、蜂蜜菓子、それから小さな瓶に入った果実の煮詰めが入っていた。
「こんなにいただけません」
「出立の日に遠慮するもんじゃないよ」
「ですが、荷物が」
「エリオットに持たせればいいさ」
「右腕に負担をかけられません」
「左手があるだろう」
あまりに当然のように言われて、ミラは少し困ったように笑った。
「では、ありがたくいただきます」
「そうしなさい。ミラさんはすぐ食事を後回しにしそうだからね」
「そんなことは」
「ありそうだから言うんだよ」
村長の妻はミラの頬を軽く見て、ふっと笑った。
「うちの村の者は、みんなあんたに世話になった。あんたが来てくれて助かったよ」
その言葉に、ミラは胸が詰まった。
「私こそ、お世話になりました」
「また戻っておいで」
「はい」
「エリオットも連れてね」
何気ない一言に、ミラは少しだけ頬が熱くなった。
「治療の経過によります」
「はいはい。治療ね」
村長の妻は楽しげに笑い、籠を置いて戻っていった。
ミラは扉を閉め、いただいた布包みをそっと鞄の横に置いた。
「……治療です」
誰に言うでもなく呟く。
けれど、胸元のペンダントは答えるようにほんのり温かかった。
エリオット・バーンスタンは、祖父母の家の前に立っていた。
古い木造の家。
村の端にあり、畑と森へ続く道が見える。
二年前、王都から戻ってきた時、この家はひどく静かだった。
祖父母はすでにいなかった。
両親は王都に残った。
そして自分は、剣を握れない右腕を抱えて、この家にひとり入った。
逃げるように帰ってきた。
王都の訓練場の音から。
騎士団の視線から。
両親の心配そうな顔から。
自分自身の惨めさから。
この家は、逃げ込む場所だった。
だが今、エリオットはその扉に鍵をかけようとしている。
逃げるためではない。
進むために。
部屋の中には、いくつかの荷物を残してきた。
木剣も置いてきた。
持っていくか迷った。
だが、今の自分にはまだ早い。
ミラにそう言われる前に、自分でそう判断した。
その代わり、短い杖を持った。
祖父が昔使っていたものだ。山道を歩く時に使っていた、硬い木の杖。
剣ではない。
だが、今の自分を支えるものとしては十分だった。
エリオットは左手で鍵を回す。
かちり、と小さな音がした。
鍵を抜き、しばらく扉を見つめる。
「行ってくる」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
祖父母へか。
この家へか。
二年間ここに閉じこもっていた自分へか。
右手首の護符が、わずかに温かくなる。
母が持たせてくれた護符。
王都で治療師に見放された後、母はこの護符を握りしめて泣きそうな顔をしていた。
その時の顔を思い出し、エリオットは少しだけ目を伏せた。
昨日、両親への手紙を書いた。
右腕が少し動いた。
治療を続けるため、しばらく村を離れる。
信頼できる治療師が状態を見てくれている。
それだけしか書けなかった。
けれど、あの一文だけは書いた。
まだ剣を握れるわけではありません。
けれど、指が動きました。
王都に手紙が届く頃、母はきっと泣くだろう。
父は黙って何度も読み返すだろう。
心配をかける。
それでも、知らせたかった。
自分はまだ終わっていないと。
エリオットは短い杖を握り直し、村の中心へ向かった。




