朝の診察と黒い薬袋 2
エルダント治療院では、すでに告知を見た人々が数人集まっていた。
その中に、青ざめた顔の女がいた。
腕に幼い子どもを抱き、片手には布に包んだ小さな袋を持っている。
「これ、昨日の夜に買った薬です。まだ飲ませてません。でも、同じ宿の子が飲んで熱を出したって聞いて……」
レオンがすぐに前へ出た。
「触らず、そのまま机へ」
女は震える手で袋を置いた。
セリアが白石布を敷き、反応針を近づける。
針先が、一度白く曇った。
それから灰色へ沈む。
「同じ型です」
セリアが言った。
女の顔から血の気が引いた。
「飲ませなくてよかった……」
ミラは子どもの顔色を見る。
熱はない。喉も腫れていない。
「この子は大丈夫です。薬は飲んでいませんね?」
「はい」
「よかったです」
ミラがそう言うと、女はその場で泣き出しそうになった。
メリッサが優しく肩に手を置く。
「袋はこちらで預かります。宿に戻ったら、同じ薬を持っている人がいないか声をかけてください。ただし、絶対に素手で触らないように」
女は何度も頷いた。
待合室の人々の間に、ざわめきが広がる。
怪しい薬袋。
安宿街。
白く曇って灰色に沈む針。
それを見つけるミラたち。
昨日までの「白い術式の治療師は危険」という噂が、さらに向きを変え始めていた。
危険なのは、彼女なのか。
それとも、彼女を危険だと決めつけている間に、外で薬を配っている誰かなのか。
人々は少しずつ考え始めていた。
午前中のうちに、薬袋は三つ集まった。
一つは未使用。
一つは半分ほど使用済み。
もう一つは、咳の続く老人が持ってきたものだった。
老人は、薬を飲んでから体が重くなったと言った。
ミラはすぐに診たかった。
けれど、手順を守った。
まず薬袋を隔離する。
次に持ち物を確認する。
それからメリッサが状態を見る。
セリアが反応を記録する。
エリオットが時刻と証人を書き留める。
最後に、ミラが薬草水の流れを細く整えた。
白花の光は、ほんのわずか。
患者の体を強く変えるのではなく、薬が届く道を戻すだけ。
老人の呼吸が少し楽になると、待合室から安堵の息が漏れた。
「また、白い術はほとんど使わなかったんですね」
薬師見習いが小声で言った。
メリッサが頷く。
「ええ。使う必要があるところにだけ、最低限。いい治療です」
その言葉は、ミラの耳にも届いた。
胸の奥が少し温かくなる。
けれど、浮かれてはいけない。
薬袋はまだ、他にもあるかもしれない。
昼前、役所の監視役が慌てた顔で治療院へやって来た。
「出所不明の薬袋が配られているというのは本当か」
院長は、机の上に並べられた封印袋を示した。
「本当です。すでに四つ回収しました。すべて銀環堂と治療院の共同確認で、同系統の反応が出ています」
「なぜ役所へ先に報告しなかった」
セリアが記録板を持ったまま、すっと顔を上げた。
「昨日、第一報は出しました。本日朝、追加告知も治療院名義で掲示済みです。患者の安全確保を優先し、持ち込まれた薬袋を隔離しました。処置記録、立会人、反応写し、すべて揃っています」
監視役は言葉に詰まる。
「それは……」
「役所が確認する前に患者が薬を飲む方がよかった、というご意見でしたら記録します」
「そうは言っていない!」
「では、患者保護を優先した治療院の判断を認める、でよろしいですね」
監視役は唇を引き結んだ。
レオンが入口近くで静かに立っている。
エリオットは記録帳に筆を走らせている。
ミラは患者のそばにいる。
誰も声を荒らげていない。
だが、場の流れはもう監視役のものではなかった。
院長が言った。
「役所へ正式な報告書を出します。ですが今は、薬袋の回収と患者の処置を優先します。異論があるなら、役所から責任者を連れてきてください」
監視役はしばらく沈黙し、結局、小さく頷いた。
午後、レオンは安宿街へ向かった。
同行したのはダリオと、治療院の薬師見習いが一人。ミラは行かなかった。行きたい気持ちはあったが、治療院に残るべきだと分かっていた。
安宿街では、薬袋の噂が広がっていた。
レオンは宿の主人たちから話を聞いて回った。
若い男。
細身。
薬師風。
声は穏やか。
「治療院に行くほどではない咳に効く」と言っていた。
安く売っていた。
名前は名乗らなかった。
そして、薬袋を買った者は全部で七人いる可能性があると分かった。
そのうち四つは回収済み。
残り三つ。
レオンは表情を変えずに聞き取りを続けた。
しかし、内心では分かっていた。
これはただの悪徳薬売りではない。
ミラを動かすために撒かれた餌だ。
その夜、青灯亭に戻った後、エリオットの右腕の確認が短く行われた。
今日は本当に短い確認だった。
布に触れる。
温度を感じる。
手のひらの端を確認する。
動かさない。
ミラは右腕の流れを見ながら、静かに言った。
「昨日より、外へ向かおうとする流れは落ち着いています。でも、ミラ……私が患者さんの方へ急いだ時に、反応が強くなるのは間違いないと思います」
自分で自分の名を言いかけて、ミラは少しだけ頬を赤くした。
セリアが記録板から顔を上げる。
「今の言い直しも記録しますか?」
「しなくていいです」
「了解しました」
エリオットは真面目な顔で言った。
「つまり、俺の右手は君の危険に反応している可能性が高い」
「……はい」
「相手に知られると、利用される」
「はい」
エリオットは右手を見下ろした。
まだ動かせない手。
けれど、守ろうとする意志だけは先に戻り始めている。
それが嬉しいのか、怖いのか、彼自身にも分からなかった。
「焦らない」
ミラが言った。
「戻っているからこそ、焦りません」
エリオットはゆっくり頷いた。
「分かった」
セリアが書き留める。
「封箱、危険時反応あり。ただし開閉試験なし。本人、焦らない旨を確認」
「そこは記録するんですね」
エリオットが言うと、セリアは当然のように頷いた。
「重要です」
同じ夜、エルダントの外れで、エルネストは報告を受け取った。
薬袋は回収され始めた。
患者は救われた。
白花反応は微弱。
騎士の右手、実用動作未確認。
だが、報告には別の一文があった。
――治療院内で、ミラ・コックスへの信頼が上昇。
――街中では、出所不明の薬袋への警戒が広がる。
――ミラ一行は、患者持ち込み品への確認体制を整えつつある。
エルネストは紙を握りしめた。
「また……」
また、観測は不完全。
それだけではない。
彼が撒いた種は、ミラたちへの疑いではなく、彼女たちへの信用を増やし始めている。
白花の治療師は暴走しなかった。
退役騎士は右手を出さなかった。
技術者は黒紙を見つけた。
護衛は安宿街を洗い始めた。
周囲が、また邪魔をする。
いや。
エルネストは唇を歪めた。
周囲だけではない。
ミラ・コックス自身が、前より慎重になっている。
それが腹立たしかった。
「なら、もっと選ばせるしかない」
彼は低く呟く。
患者か。
記録か。
仲間か。
右手か。
どれかを守るために、どれかを捨てる状況を作ればいい。
そうすれば、白花は必ず揺れる。
エルネストは机の上に新しい紙を広げた。
次の線を引くために。




