朝の診察と黒い薬袋 1
翌朝、青灯亭の奥部屋には、朝食より先に小さな診察の場が作られた。
窓は閉められ、厚い布が掛けられている。扉の外にはレオンが立ち、廊下の奥にはダリオがいる。机の上には白石布、普通の布、細い記録紙、そしてセリアの記録板が並べられていた。
エリオットは椅子に座り、右腕の補助具を机に置いた。
ミラはその向かいに座る。
「昨日、処置室で右手を出そうとした感覚があったんですよね」
「ああ。実際には動かしていない」
「痛みは?」
「昨夜は少し熱があった。今は落ち着いている」
「薬指と小指は?」
「薬指は位置が分かる。小指も、昨日よりはっきりしている気がする」
セリアがすぐに記録する。
「封箱、内留め具および外留め具に響きあり。前日より輪郭明瞭。開閉試験なし」
ミラは白花の光をほんの細く灯した。
右腕の中には、まだ黒い封じがある。
けれど、その奥で白い流れが細く伸びていた。手首から手のひらへ。手のひらから薬指と小指へ。昨日より少し、線が濃い。
そして何より、右腕全体に残る熱の向きが変わっていた。
ただ回復しているだけではない。
昨日、少年の薬袋に仕込まれた黒紙を見つけた時。ミラが前へ出ようとした瞬間。エリオットは右手を出そうとした。
その反応の跡が、まだ残っている。
「……守ろうとしたんですね」
ミラは小さく言った。
エリオットが少しだけ眉を動かす。
「意識としては、そうだったと思う」
「右腕が、ミラさんの危険に反応したということですか」
セリアが問い返す。
ミラは慎重に頷いた。
「断定はできません。でも、ただ布を感じた時とは違います。流れが、外へ向かおうとしていました」
セリアは記録板へ新しい行を書き足した。
「封箱、白布接近時および危険認識時に外向き反応の可能性。要継続観察」
エリオットは少しだけ目を伏せた。
「厄介だな」
「厄介です」
ミラはきっぱり言った。
「だからこそ、今日は動作確認はしません」
「分かっている」
「本当に?」
「本当に」
セリアが筆を止める。
「この確認、定型文にしておきますか」
ミラは少し頬を赤くした。
「しなくていいです……」
「毎回発生していますが」
「しなくていいです」
エリオットの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ミラはそれに気づき、少しだけ睨んだ。
「エリオットさんも笑わないでください」
「笑っていない」
「本当に?」
「……少しだけ」
部屋の空気がわずかに和らいだ。
けれど、すぐにオリヴァーが静かに言った。
「右手がミラを守る場面で反応するなら、相手はそこを狙ってくる」
レオンが扉の外から声をかける。
「昨日の薬袋は、その試しだろうな」
エリオットは頷いた。
「ミラを患者へ向かわせる。俺が止めるか、庇うか、右手を出すかを見る」
「だから今日は、そこを潰します」
セリアは記録板を閉じた。
「患者さん本人だけでなく、患者さんが持ってきたものも診ます」
朝食後、青灯亭の小会議室で対策がまとめられた。
机の上には、昨日見つかった黒紙媒介の写し、薬袋の絵、安宿街の簡単な地図が広げられている。
セリアが指で薬袋の絵を叩いた。
「今回の媒介は、治療院内に仕込まれたものではありません。患者さんの持ち物に紛れています。つまり、治療院の遮断具だけでは防げません」
「入口で確認する必要があるな」
レオンが言う。
「はい。治療院へ入る患者さん全員の荷を改めるわけにはいきませんが、薬袋、薬草包み、見慣れない護符、安物の治療具は確認対象にします」
ミラは眉を寄せた。
「患者さんたち、嫌がらないでしょうか」
「嫌がる人はいます」
セリアは即答した。
「ですが、“あなたを疑っているのではなく、あなたに渡された物を確認している”と説明すればいい。レオンさん」
「俺が入口で言う」
レオンは淡々と答えた。
「患者に怖がられない言い方はする。だが、持ち物を隠す者は通さない」
メリッサや院長にも見せるため、セリアは確認手順を書いていく。
「一、安宿街で配られた薬袋を使用しないよう告知。
二、持ち込まれた薬袋は素手で触らない。
三、白石布に置き、反応針で確認。
四、黒紙発見時は銀環堂へ連絡。
五、患者への処置は、媒介隔離後に行う。
六、ミラさんの白花反応は最後。必要最低限」
「私が最初に診ない方がいいですね」
ミラが言うと、エリオットが頷いた。
「まずメリッサさんか院長。君は流れを見るだけ。異常がある場合に限って前へ出る」
「はい」
オリヴァーは安宿街の地図を見ていた。
「レオン、薬を配った男の足取りは?」
「安宿街の南側で二件、似た話があった。どちらも若い薬師風の男。顔を隠していたわけではないが、印象に残りにくい。金額はかなり安い」
「目的は金ではないね」
「撒くことだろうな」
ダリオが低く言う。
「同じ袋を何人に渡したかが問題だ」
その言葉に、部屋の空気が重くなった。
ミラは手元の薬袋の絵を見つめる。
小さな黒紙。
薬を信じて飲んだ人の体を、少しずつ鈍らせるもの。
怒りはまだ胸の奥にあった。
でも今朝は、その怒りに飲まれてはいない。
怒るなら、動くために。
助けるために。
「治療院に行きましょう」
ミラは言った。
「薬袋を持っている人が来るかもしれません」




