薬袋に仕込まれた黒紙 2
処置室を出ると、ミラは廊下の壁に手をついた。
エリオットがすぐに近づく。
「疲れたか」
「少し。でも、大丈夫です」
「白花はほとんど使っていない」
「はい。でも……怒っています」
エリオットは何も言わず、ミラの言葉を待った。
ミラは俯いたまま続ける。
「患者さんを、測るための道具にしている。薬を信じて飲んだ子に、あんなものを混ぜて」
声は荒くない。
けれど、静かな怒りがあった。
「黒い媒介より、その考え方の方が嫌です」
セリアが記録板を閉じた。
「その怒りは正しいです。ただし、怒ったまま力を使わないでください」
「はい」
「怒りは記録に向きません」
ミラは少しだけ目を瞬いた。
そして、かすかに笑った。
「セリアさんらしいですね」
「褒め言葉として受け取ります」
レオンが戻ってきた。
「宿の主人に場所を聞いた。安宿街の路地だ。薬を渡した男は、昨日の夜に消えている」
「追えますか」
エリオットが問う。
「痕跡は薄い。ただ、同じ薬袋を渡された者が他にもいるかもしれない」
その一言で、場の空気が変わった。
ミラは顔を上げる。
「他にも?」
「可能性だ。撒くなら一つではない」
セリアがすぐに言った。
「治療院へ告知を出しましょう。“安宿街で配られた薬袋を使用しないこと。持っている者は治療院か銀環堂へ持参”と」
院長が頷く。
「すぐに出します」
メリッサも動き出した。
「薬師見習いを安宿街へ走らせます。ただし、薬袋には触れさせないよう伝えます」
エリオットはミラを見る。
「君は治療院に残る。来た患者を診る必要がある」
「はい」
ミラは頷いた。
走り出したい気持ちはあった。
だが今、自分が行くべき場所は路地ではない。
患者が来る場所にいることだ。
その日の午後、エルダント治療院には新しい張り紙が出された。
――安宿街周辺で配られた出所不明の薬袋を使用しないこと。
――使用後に咳、熱、薬効低下が見られる場合は、治療院へ相談すること。
――薬袋には触れず、布に包んで持参すること。
――銀環堂および治療院が確認を行う。
街の人々がざわついた。
今度は、ミラに対する疑いではない。
誰かが患者に怪しい薬を配ったという話だった。
そしてその異常を見つけたのは、通達で危険視されていたはずの旅治療師だった。
噂はまた少し、向きを変えた。
夕方、青灯亭に戻ったミラたちは、小会議室で今日の出来事を整理した。
セリアは黒紙を封じた白石布を机に置く。
「薬袋型の持ち込み媒介。目的は薬効遅延と白花反応の誘導。患者を重篤化させるほどではありませんが、放置すれば悪化はあり得ます」
レオンが続ける。
「安宿街で配った男は若い。細身。薬師風。顔ははっきり覚えられていない。だが、治療院の罠を仕掛けた術者と同一の可能性はある」
エリオットは記録を見ながら言った。
「今回の狙いは、ミラの自発反応でしょう」
「それと、エリオットさんの反応です」
セリアが補足する。
「患者が急変すれば、あなたがミラさんを止めるか、庇うか、右手を出すかを見ることもできる」
エリオットの表情が少し硬くなる。
右手は今日も使っていない。
だが、処置室でミラが前に出ようとした瞬間、確かに右腕が反応しかけた。
動かしたわけではない。
でも、意識がそこへ走った。
ミラも気づいていた。
「……確認しますか」
エリオットは少し沈黙した。
それから首を横に振った。
「今日はしない。君も疲れている」
ミラは驚いたように彼を見る。
エリオットは静かに言った。
「報告だけしておく。処置室で、右手を出そうとした感覚があった。実際には動かしていない」
セリアがすぐに記録する。
「封箱、危険時自発反応の兆候。開閉試験なし。外部未確認」
ミラは小さく息を吐いた。
「明日、確認しましょう。今日は休みます」
「そうしてほしい」
そのやり取りを、レオンは黙って見ていた。
そして短く言った。
「いい判断だ」
エリオットは彼を見る。
「どちらが?」
「二人ともだ。動かしたくなる場面で動かさないのは、戦うより難しい」
その言葉は、エリオットに静かに届いた。
同じ頃、エルダントの安宿街の外れで、エルネスト・ヴィダルは報告を受け取っていた。
薬袋の一つが治療院へ持ち込まれた。
黒紙は見つかった。
患者は死なず、症状は戻り始めた。
白花反応は微弱。
騎士の右手の動作は未確認。
また、完全ではない。
エルネストは唇を噛んだ。
だが、今回は苛立ちだけではなかった。
白花の治療師は怒った。
それでも、暴走しなかった。
退役騎士は反応した。
それでも、右手を出さなかった。
周囲の連携は、治療院の時より早くなっている。
新体制。
その言葉が、エルネストの脳裏に浮かぶ。
「……なら、もっと乱せばいい」
低く呟いた声は、霧に沈んだ。
彼はまだ理解していない。
患者を助けるために手順を整える者たちの強さを。
そして、怒りながらも踏みとどまるミラの強さを。




