薬袋に仕込まれた黒紙 1
エルダント治療院でのミラの仕事は、少しずつ日常の形を取り始めていた。
朝、薬師長メリッサからその日の患者の一覧を受け取る。
軽傷患者の処置を補助する。
薬草茶の濃さを確かめる。
包帯棚と水瓶の記録盤に異常がないか、セリアと一緒に確認する。
そしてエリオットは、少し離れた場所で記録を取る。
右手は補助具の中。
外では、何も変わっていないように見せている。
レオンは治療院の出入口と待合室、そして裏口を見ていた。彼は患者に威圧感を与えない位置に立ちながら、それでも誰が誰を見ているのかを見逃さない。
セリアは今日も革手袋をはめ、記録板と反応針を持っている。
「水瓶、異常なし。包帯棚、異常なし。処置室の遮断具、反応安定」
セリアが淡々と読み上げる。
ミラはほっと息を吐いた。
「昨日より空気が軽いです」
「遮断具が効いていますね。高いだけはあります」
「それ、イザークさんが聞いたら喜びそうです」
「聞かせると値上げの理由に使うので、言わない方がいいです」
そう言ってから、セリアは待合室の方へ視線を向けた。
「ただ、今日は外からの持ち込みにも注意してください」
「持ち込み?」
「治療院内を遮断したなら、次は外から入れようとする可能性があります」
ミラは胸元の白花のペンダントに触れた。
今朝は、ほとんど熱を持っていない。
だが、それで安全だとは限らないのだと、もう分かっていた。
昼前、安宿街から一人の少年が運び込まれた。
年は十三、四ほど。荷運びの見習いらしく、痩せた体に粗末な上着を着ている。咳が止まらず、額には熱があった。
付き添いの男は、宿の主人だという。
「三日前から咳が続いててな。昨日、薬を飲ませたんだが、効きやしない。今朝になって熱が上がった」
メリッサがすぐに少年を診た。
「胸の音は濁っていない。喉と気管の炎症ね。普通なら薬草茶と休養で戻るはずだけれど……」
ミラは一歩離れた場所から少年を見た。
すぐに触れない。
見るだけ。
少年の喉から胸へかけて、薄い灰色の膜のようなものがかかっている。
昨日までの治療院の灰色に似ている。
けれど、もっと小さい。
もっと近い。
患者本人の内側というより、何かが外側から薄く巻きついているようだった。
「ミラさん?」
メリッサが気づいて声をかける。
ミラは慎重に答えた。
「薬が効きにくくされている感じがします。でも、体の中だけじゃなくて……持ち物に何かあるかもしれません」
その瞬間、セリアが動いた。
「患者の持ち物確認を」
宿の主人が戸惑う。
「持ち物って、薬袋と上着くらいだが」
レオンが穏やかな声で言った。
「危険物の可能性があります。本人を疑っているわけではありません。触らず、机に置いてください」
宿の主人はごくりと息を呑み、布製の小さな薬袋を机へ置いた。
セリアは反応針を近づける。
針先は黒くならない。
だが、一度だけ白く曇り、それから灰色へ沈んだ。
ミラの胸元のペンダントが、微かに熱を帯びる。
「偽白……」
ミラが呟くと、エリオットがすぐに顔を上げた。
「ミラ、触れるな」
「はい」
セリアは細い器具で薬袋の口を開いた。
中には乾燥薬草が入っている。
その底に、爪の先ほどの薄い黒紙が一枚、紛れ込んでいた。
メリッサの表情が険しくなる。
「薬に、こんなものを……」
セリアは黒紙を白石布へ落とし、封じる。
「持ち込み型です。治療院内ではなく、患者の薬袋に仕込まれています」
院長ハーヴェイがすぐに監視役を見る。
「これは当院の管理物ではありません。患者が外から持ち込んだものです。記録してください」
監視役は青ざめた顔で頷いた。
少年は苦しそうに咳き込んでいた。
ミラの足が、一歩前へ出かける。
今すぐ喉の流れを戻したい。
この灰色の膜を払いたい。
楽にしてあげたい。
だが、エリオットが低く言った。
「これは、君に使わせるための罠だ」
その声に、ミラは踏みとどまった。
分かっている。
でも、目の前に患者がいる。
ミラの手が震える。
セリアが横から言った。
「患者を救うことと、相手に反応を渡さないことは両立できます。順番を間違えなければ」
ミラは顔を上げる。
セリアの表情は厳しい。
けれど、その声はミラを責めるものではなかった。
「まず黒紙を完全に隔離します。次に、薬草茶を入れ替えます。白花反応は最後です。必要な場合でも、喉ではなく薬の流れを戻す。患者本人に直接強く入れない」
メリッサが頷く。
「薬草茶はこちらで用意します。ミラさん、患者の呼吸だけ見て」
レオンが宿の主人へ向き直った。
「その薬袋、誰からもらった?」
「知らない男だ。安宿街で、咳に効く薬があるって……安かったから」
「顔は覚えているか」
「暗くて……でも若い男だった。細くて、薬師みたいな恰好をしてた」
レオンの目が細くなる。
「場所を後で案内してもらう」
宿の主人は何度も頷いた。
処置は、ゆっくり進められた。
黒紙を隔離。
薬袋を封印。
患者の上着と靴も確認。
持ち込まれた薬草は使用停止。
ミラは少年のそばに座ったが、すぐには手を触れなかった。
「息を吸えますか」
少年は苦しそうに頷く。
「少しずつでいいです。薬を替えます。すぐに楽にしようと無理はしません」
少年はかすれた声で言った。
「治る……?」
「治します」
ミラは静かに答えた。
それから言い直す。
「いえ、一緒に治しましょう。あなたの体が戻る道を、少し手伝います」
胸元の白花のペンダントが、ふわりと温かくなる。
だが、ミラは黒を見ない。
少年の体に残る、本来の呼吸を見る。
吸う。
吐く。
喉が開く。
胸が上下する。
薬草が炎症を鎮める。
そこへ、灰色の膜ではなく、薬の流れが戻る道だけを細く照らした。
白花の光は、ごく淡かった。
セリアがすぐに記録する。
「白布反応、微弱。対象は患者本人ではなく薬草水。偽白干渉なし。黒紙隔離後」
エリオットも記録を重ねる。
ミラの手は震えていない。
レオンは扉のそばで、外の気配を見ている。
メリッサが薬草茶を少年へ飲ませる。
しばらくして、少年の咳が少し落ち着いた。
熱はまだある。
けれど、呼吸は先ほどより深くなっていた。
院長が静かに息を吐く。
「戻り始めた」
ミラは少年の顔色を確認し、小さく頷いた。
「まだ油断できません。でも、薬が届き始めています」




