不完全な観測者 2
机の上に、セヴランからの返書が置かれている。
薄い紙に、整った文字。
エルネストはすでに何度も読んでいた。
――観測は不完全。
その一文を見るたび、胸の奥が焼ける。
不完全。
不完全。
不完全。
分かっている。
分かっているが、先生にそう書かれると、喉が詰まる。
彼は震える指で続きをなぞった。
――ただし、白花が偽白を識別した点は興味深い。
――白系反応は温度差、流路記憶、対象への復帰性を伴う可能性あり。
――周辺の職人と技術者を軽視しないこと。
――次は対象の自発反応を記録してください。
興味深い。
その言葉だけが、エルネストの胸を支えた。
先生はまだ、自分の観測を捨てていない。
不完全でも、価値があった。
ならば次こそ。
次こそ、完全な記録を送る。
「自発反応……」
エルネストは呟いた。
白花の治療師は、患者を見捨てない。
困っている者がいれば、手を伸ばす。
傷ついた者を見れば、治そうとする。
危険な黒を見れば、戻る道とやらを探す。
そして退役騎士は、彼女を守る。
治療院で見て分かった。
エリオット・バーンスタンは、白花の治療師が深く見すぎる前に止める。危険に近づけば半歩前へ出る。右手は使わない。だが、意識だけは常に彼女へ向いている。
右腕は本当に動かないのか。
それとも隠しているのか。
エルネストは机に広げた紙へ、細い線を引いた。
患者。
薬袋。
小さな媒介。
偶然の転倒。
咄嗟の手。
白花の自発反応。
騎士の自発反応。
治療院のような大きな罠はもう使えない。
銀環堂の遮断具が入る。セリアが記録する。レオンという護衛も増えた。
ならば、外で起こす。
治療院の外。
街道。
薬を取りに来た患者。
役所の目が届きにくい路地。
あるいは、次の目的地へ向かう途中。
直接壊す必要はない。
ただ、揺らせばいい。
白花の治療師が自分から動く状況を作ればいい。
エルネストは小さな薬袋を手に取った。
中には、普通の乾燥薬草が入っている。
その奥に、爪の先ほどの薄い黒紙。
反応はごく弱い。
患者を殺すものではない。
症状をほんの少し長引かせ、薬効の戻りを鈍らせるだけ。
条件を整えるためだ。
観測しやすくするためだ。
そう、先生なら言う。
エルネストもそう信じている。
だが、窓の外の運河に映る自分の顔は、ひどく苛立っていた。
なぜ苛立つ。
研究だ。
観測だ。
怒りではない。
そう言い聞かせても、セリア・ナクトの冷静な声が耳に残る。
――接続が荒い。
――偽白反応。
――測定罠。
――逆写し成功。
あの女技術者。
黒系術式の美しさも知らないくせに、手順と記録だけで先生の理論へ刃を入れようとする。
エルネストは薬袋を握りしめた。
「邪魔だ」
白花の治療師よりも先に、周囲が邪魔だ。
職人。
技術者。
護衛。
退役騎士。
彼らがいるから、白花の純粋な反応が見えない。
なら、剥がす。
一人ずつ。
離す。
揺らす。
迷わせる。
先生の術式が劣っているわけではない。
自分の観測が不完全だっただけだ。
次は違う。
夜更け、エルネストは別の紙へ報告を書いた。
セヴラン宛てではない。
王都の外郭研究棟へ流す、経過記録の控えだ。
――対象:白花反応を持つ治療師ミラ・コックス。
――対象補助:退役騎士エリオット・バーンスタン。右腕に封鎖系反応の可能性。
――周辺要素:魔道具職人オリヴァー・コックス、技術者セリア・ナクト、護衛候補レオン・ハイム。
――治療院測定罠、第一層および第二層まで読解される。
――偽白反応、識別される。
――受信線、逆写しにより破棄。
――観測継続のため、対象の自発反応誘導へ移行。
書き終えてから、彼はしばらく文字を見つめた。
不完全。
その言葉が、また胸に刺さる。
エルネストはインクが乾く前に、最後の一文を書き足した。
――次回観測にて、白花および騎士反応の単独条件を確認予定。
単独条件。
つまり、周囲を剥がした状態。
その言葉に、彼はようやく少しだけ落ち着いた。
同じ夜、彼は外套を羽織り、貸家を出た。
運河沿いの道には霧が出ている。
エルダント治療院の方向には行かない。
銀環堂にも近づかない。
今はまだ。
彼が向かったのは、薬を求める者たちが集まる安宿街だった。
治療院へ行くほどの金はない。
だが、症状が長引いて困っている。
旅治療師の噂を聞けば、縋りたくなる。
そういう人間は、いつだっている。
エルネストは路地の陰で足を止めた。
手の中には、黒紙を仕込んだ薬袋。
彼にとって、それは罠ではなかった。
観測具だった。
患者を害するためではない。
反応を見るためだ。
そう信じている。
だからこそ危険だった。
彼は、自分の行為に名前をつける。
実験。
観測。
条件整理。
自発反応誘導。
そのどれもが、誰かの苦しみの上に成り立っていることを、彼は見ようとしない。
エルネスト・ヴィダルは霧の中へ消えた。
黒い弟子は、まだ自分が黒い影の中にいることを知らない。




