↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
262/354

不完全な観測者 1

 エルダントの外れには、川霧の溜まりやすい古い貸家通りがある。

 職人街からも、役所通りからも少し離れた場所だ。昼間は洗濯物が軒先に揺れ、夜になると運河からの湿った風が壁を撫でる。旅人も商人も長くは留まらない。人の出入りがあっても、誰も深く気にしない。

 エルネスト・ヴィダルは、その一室を借りていた。

 二十六歳。

 痩せた体つきに、暗い栗色の癖毛。顔色は青白く、指先には黒い薬品の染みが残っている。きちんと整えた服を着ていても、袖口や襟元に研究室の匂いが染みついていた。

 机の上には、治療院で使った術式紙の写しと、割れた黒い記録盤の残骸が並んでいる。

 失敗した。

 その言葉が喉の奥に引っかかるたび、エルネストは奥歯を噛みしめた。

 失敗ではない。

 観測はできた。

 白花の治療師は偽白を見分けた。

 退役騎士は彼女を制止する役割を持っている。

 職人と技術者は、白い反応を暴走させず記録へ落とし込む。

 得たものはある。

 あるはずだ。

 だが、先生に提出するには、あまりにも不完全だった。

     

 エルネストは机の引き出しから一冊の薄い冊子を取り出した。

 表紙には何も書かれていない。

 だが、中には彼が何度も読み返した論文の写しが挟まれている。

 セヴラン・ノックス著。

 『魔力路の屈曲保持に関する基礎考察』

 『外部命令の残留定着と媒介適性』

 『環境流路の閉鎖循環による反応観測』

 『治癒反応遅延下における白系波長の測定』

 初めて読んだ時、エルネストは震えた。

 黒系魔術は、ただ封じるだけのものではない。

 腐敗した魔力を閉じ込める。

 呪物を隔離する。

 瘴気を押さえ込む。

 それだけが黒系の役割だと、凡庸な講師たちは言った。

 だがセヴランは違った。

 黒は、世界の流れを止めるためだけの色ではない。

 曲げる。

 留める。

 遅らせる。

 同じ条件に整える。

 そして、観測する。

 人の魔力路がどこまで屈曲に耐えるか。

 土地の流れはどこで滞るか。

 水は命令をどの程度記憶するか。

 治癒反応は、遅延させた時にどのような白を返すか。

 それは、世界を読むための技術だった。

 少なくともエルネストには、そう見えた。

「先生は、誰よりも正確に見ている」

 彼は小さく呟いた。

 村の水を歪めたのではない。

 環境流路の反応を見やすくしただけだ。

 患者の治りを鈍らせたのではない。

 治癒条件を均一化しただけだ。

 命令痕は、意思を奪うためのものではない。

 外部命令が魔力路にどう定着するかを調べる、貴重な記録だ。

 凡人はそれを禁術と呼ぶ。

 倫理だの、人道だの、そんな曖昧な言葉で研究を縛ろうとする。

 エルネストは、その狭さが嫌いだった。

 セヴランだけが、黒系術式の本当の価値を知っていた。

     

 エルネストがセヴランに出会ったのは、王都の外郭研究棟だった。

 王立魔術院の表の研究室ではない。

 だが、完全に違法な地下室でもない。

 貴族の寄付で成り立ち、魔術院の一部研究者が名を伏せて出入りし、表には出せない術式を「実用化前検証」と称して扱う場所。

 そこに、セヴランはいた。

 静かな声の男だった。

 四十前後。

 黒に近い髪を整え、灰色の目で対象を見つめる。怒鳴らない。焦らない。人の失敗を責めもしない。

 ただ、言う。

 ――観測条件が乱れていますね。

 ――対象の感情を排除できれば、もう少し綺麗な反応が得られます。

 ――傷つけることが目的ではありません。変化を記録することが目的です。

 その言葉を聞いた時、エルネストは自分の世界が開けた気がした。

 彼は天才ではなかった。

 黒系への適性はある。

 計算もできる。

 術式も読める。

 だが、王都魔術院の中で目立つほどではない。倫理審査に反発するほどの胆力もなく、自分で新しい理論を築けるほどの才能もない。

 だからこそ、セヴランの理論は救いだった。

 従えばいい。

 理解すればいい。

 先生の術式を正しく再現できれば、自分も価値ある研究者になれる。

 エルネストにとって、セヴランは師であり、道であり、自分の凡庸さを赦してくれる唯一の光だった。

 黒い光。

 だが、彼にはそれが何より美しく見えた。

     

 サリア水車村の報告が届いた時、セヴランは楽しげだった。

 白花の治療師。

 傷ついた退役騎士。

 水と祠の反応。

 黒い媒介の押し出し。

 それを聞いたセヴランは、静かに微笑んだ。

 ――面白いですね。

 ――破壊ではなく、復帰。

 ――古い白系加護の可能性があります。

 そしてエルネストに命じた。

 ――エルダントへ向かいなさい。

 ――白花がどの条件で反応するかを見てください。

 ――騎士の腕がどの反応に共鳴するかも、可能であれば。

 ――焦る必要はありません。観測を優先しなさい。

 焦る必要はない。

 そう言われた。

 だが、エルネストは成果を出したかった。

 先生が「面白い」と言った対象を、自分が最初に記録したかった。

 だからエルダント治療院を選んだ。

 治療院なら、薬、水、包帯、治癒魔法、患者の反応が揃う。

 白い治療師が来れば、必ず異常に気づく。

 だが、通達が回っている以上、最初から自由には動けない。

 その制限の中で、どこまで白花が反応するか。

 見たかった。

 測りたかった。

 先生に報告したかった。

 ――白花の反応条件を、私が確認しました。

 そう書きたかった。

 だが結果は、不完全。

 治療院の罠は解除された。

 受信線は辿られた。

 記録盤は割れた。

 証拠まで残した。

 しかも、白花の治療師一人に読まれたのではない。

 オリヴァー・コックス。

 セリア・ナクト。

 エリオット・バーンスタン。

 周囲の人間が、白花の反応を支え、記録し、彼の術式を分解した。

 それが何より腹立たしかった。

     


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。