疑いの街で積む信頼 3
夕方、診療が終わった後、ミラは青灯亭へ戻る前に、メリッサから小さな包みを渡された。
「これは?」
「治療院で使う薬草茶の余りよ。今日あなたが調整した配合、患者の評判が良かった。宿で飲んで休みなさい」
「ありがとうございます」
ミラが受け取ると、メリッサは少しだけ声を落とした。
「それと、坑道下の村の話。正式には何も言えない。でも、もし本当に患者が出ているなら、誰かが行かないといけない」
ミラはメリッサを見る。
「役所は、情報を出してくれるでしょうか」
「今のままでは難しいわね」
「……そうですか」
「でも、治療院としてあなたの働きを報告する。役所がいつまでも“危険人物だから動かすな”と言い続けるのは、少しずつ難しくなるはずよ」
その言葉は、ミラにとって大きかった。
すぐには動けない。
でも、道は完全に閉じていない。
その夜、青灯亭の奥部屋で、エリオットの右手の確認が行われた。
ミラ、エリオット、セリア。
今日はオリヴァーも同席している。
レオンは廊下の外に立ち、誰も近づけないようにしていた。
「今日は移動も治療院もありました。疲労があるなら確認だけで終わります」
ミラが言うと、エリオットは素直に頷いた。
「確認だけで」
セリアが記録板を構える。
「封箱記録、別紙にします」
その言い方に、ミラはまだ少し慣れない。
けれど、その符丁が守りになるのだと分かっている。
エリオットは補助具を机に置いた。
ミラは布を一枚出す。
「前回は温度と接触位置が分かりました。今日は同じ確認だけです。押さえようとしないでください」
「分かった」
布を右手の下へ差し込む。
エリオットは目を閉じた。
部屋は静かだった。
遠くで、運河の水音がする。
「……前より、端が分かる」
エリオットが低く言った。
「布の端ですか?」
「ああ。手のひらの中心ではなく、少し外側に当たっている」
ミラは白花の光をほんの細く灯す。
黒い封じはまだある。
けれど、手のひらへ向かう白い流れが、前よりわずかに広がっていた。
薬指と小指への線も、細いながら繋がっている。
「底板、響き範囲拡大」
セリアが淡々と記録する。
「痛みは?」
「変わらない。熱は少しある」
「では十数えたら終わりです」
ミラが数え始める。
一。
二。
三。
エリオットは動かない。
四。
五。
ミラは、彼の左手が膝の上で軽く握られているのに気づいた。
六。
七。
焦っていない。
でも、喜んでいる。
そのことが分かった。
八。
九。
十。
「終わりです」
ミラはすぐに布を外した。
エリオットはゆっくり息を吐く。
「残っています。布の端の感覚が」
「今日はここまでです」
「分かっている」
「本当に?」
「本当に」
セリアが記録板から顔を上げた。
「このやり取りも毎回記録しますか?」
ミラは少し赤くなった。
「しなくていいです」
「では、“追加確認なし。本人同意済み”とだけ書きます」
「お願いします……」
オリヴァーは横で静かに見守っていた。
娘と、傷ついた騎士。
その間で少しずつ戻っていく手。
これもまた、王都へ送るべき記録なのだ。
ただし、誰にでも見せていいものではない。
その頃、青灯亭の向かいの路地に、一人の男が立っていた。
剣を知る目をした密偵だった。
彼は宿の灯を見上げる。
右腕の動きは見えない。
治療院では、対象は相変わらず右手を使っていない。
街中でも荷を持たない。
扉も左手。
記録帳も左手。
報告上は、回復なし。
だが、何かが違う。
姿勢。
右肩の沈み。
ミラ・コックスが近くにいる時の反応。
ほんのわずかに、右腕を庇うだけではない動きがある。
確証はない。
それが一番厄介だった。
密偵は低く息を吐き、暗がりへ消えた。
明日の報告には、こう書くしかない。
――右腕の実用動作は未確認。
――ただし、対象の姿勢と反応に微細な変化あり。
――詳細確認は困難。
――新たな護衛と技術者の加入により、接近はさらに難しくなる見込み。
確証のない報告。
だが、王都でそれを読む者の不安を煽るには十分だった。
同じ夜、エルダントの外れでは、エルネスト・ヴィダルが新しい紙に術式を書いていた。
治療院はもう使えない。
銀環堂の遮断具が入る。
セリア・ナクトが記録を取る。
オリヴァー・コックスが媒介を読む。
レオンという護衛も増えた。
遠くから測る手段は塞がれた。
ならば、近づくしかない。
エルネストは細い筆で、紙の端に黒い線を引く。
患者。
持ち物。
薬袋。
小さな事故。
咄嗟に出る手。
白花の女は、患者を見捨てない。
傷ついた騎士は、あの女を守る時に反応する。
ならば、そこを突けばいい。
「周りを剥がせば、見える」
彼は低く呟いた。
「先生の術式が劣っているのではない。あの連中が邪魔をしているだけだ」
灯の下で、彼の痩せた指先に黒い薬品の跡が残っていた。
エルダントの夜は、静かに深まっていく。
表では信用が積まれ、裏では次の罠が組まれていた。




