疑いの街で積む信頼 1
エルダントで迎える朝は、サリアの朝とは違っていた。
サリアでは水車の音が一日の始まりを告げた。
けれどエルダントでは、運河を行き交う船の櫂の音、荷運び人の掛け声、市場へ向かう馬車の車輪の響きが、街を少しずつ目覚めさせていく。
《青灯亭》の小さな食堂で、ミラは温かいスープを口に運んだ。
今日から、治療院での補助治療が本格的に始まる。
とはいえ、自由に動けるわけではない。
通達はまだ撤回されていない。
役所はミラを完全に信用したわけではない。
治療院が協力者として受け入れたとはいえ、患者への接触も、白花反応の使用も、すべて記録付きだ。
それでも、昨日までとは違う。
ミラはもう、門前で名前を呼ばれて止められた旅治療師ではない。
エルダント治療院の依頼を受けた補助治療師だった。
「今日は普通の処置が中心になると思います」
ミラは食後、鞄の中を確認しながら言った。
「傷、火傷、薬草茶の調整。それから、昨日の患者さんたちの経過確認」
隣でエリオットが記録帳を閉じる。
「白花の反応は?」
「使いません。必要があれば、院長先生かメリッサさんの許可を取ってからです」
「よし」
「なんだか、父さんが増えたみたいです」
ミラが少しだけ不満げに言うと、エリオットは真面目に首を傾げた。
「それは褒め言葉か?」
「半分くらいは」
そこへ、セリアが水の入った杯を置きながら言った。
「残り半分は、過干渉という意味ですね」
エリオットが一瞬黙る。
ミラは思わず笑った。
「セリアさん、はっきり言いますね」
「曖昧にすると事故になります」
「その言葉、便利すぎませんか?」
「実際、便利です」
セリアは表情を変えずに答えた。
その横で、レオンが黙々と朝食を終えていた。
昨夜、正式な依頼を前提としてすべてを聞いた男は、今朝も大きく態度を変えなかった。驚いた様子も、妙に距離を詰める様子もない。
ただ、宿の入口、食堂の窓、通りを行く人々の動きを、自然に目で追っている。
それが護衛なのだと、ミラは思った。
治療院では、朝から数人の患者が待っていた。
昨日の告知を見た者。
罠が解除されたと聞いた者。
そして、ミラが本当に危険な治療師なのか、自分の目で確かめに来た者。
その中には、露骨に警戒した顔の者もいた。
ミラはそれを見ても、なるべくいつも通りに振る舞った。
最初の患者は、パン屋の娘だった。熱い鉄板で手の甲を軽く火傷したらしい。
「白い術は使わないんですか?」
娘は手を出しながら、おそるおそる尋ねた。
「この火傷なら必要ありません。冷やして、薬を塗って、包帯を替えれば治ります」
「でも、白い術を使うと早く治るんじゃ……」
「早く治すより、きちんと治す方が大事です」
ミラはそう言って、薬草水で火傷の周りを冷やした。
治療院の薬師長メリッサが横で頷く。
「判断は正しいです。軽い火傷に強い治癒を重ねると、かえって皮膚が引きつることがあります」
娘は目を瞬いた。
「そうなんですか」
「はい。治療は強ければいいわけではありません」
ミラは丁寧に薬を塗り、薄く包帯を巻いた。
白花は反応しない。
ただの、普通の処置。
けれど、それを見ていた娘の母親が、ほっとしたように息を吐いた。
「……普通なんですね」
「はい」
ミラは少しだけ微笑んだ。
「普通の治療師です」
その言葉を、エリオットが記録する。
患者名。
症状。
処置内容。
白花反応使用なし。
患者家族の発言。
小さな記録が、また一つ積まれる。
午前の診療が落ち着いた頃、ミラはメリッサに尋ねた。
「このあたりで、治療師を必要としている村や集落はありますか?」
メリッサは少しだけ表情を曇らせた。
「本来なら、治療院に入ってくる相談を確認すればいいのだけれど……今は役所が情報を止めているわ」
「止めている?」
「正式には、“身分照会中の一行へ外部依頼を紹介するには確認が必要”という言い方ね」
ミラは胸の奥が少し重くなるのを感じた。
治療院では受け入れられ始めている。
けれど、街の制度そのものはまだミラたちを疑っている。
「近隣の村で治療が必要なところがあっても、私たちには分からないんですね」
「公式には、ね」
メリッサは声を落とした。
「ただ、患者や荷運び人から話は入るわ。北の丘陵地にある村で、咳が長引いているらしいとか、川沿いの集落で薬草の効きが悪いとか。あと……坑道下の村から来た人が、変な熱の話をしていた」
「坑道下の村……」
ミラはその言葉を繰り返した。
昨日、オリヴァーがリンドルへ連絡すると言っていた場所の一つだ。
坑道。
土。
熱。
水ではなく、土の流れが歪められている可能性もある。
ミラはすぐに飛びつきそうになった自分を抑えた。
今はまだ、噂だ。
確認がいる。
勝手に動けば、また役所に足を取られる。
「その話、詳しく分かりますか?」
「今日の午後、その患者の知り合いが薬を取りに来るはずよ。聞ける範囲で聞いておく」
「ありがとうございます」
メリッサは少しだけ笑った。
「礼を言うのはまだ早いわ。正式な紹介はできない。今は、ただの世間話よ」
「はい。世間話として聞きます」
ミラは頷いた。




