治療院からの依頼 3
その日の午後、銀環堂へ戻る道中、ミラたちは少しだけ街の視線が変わったことに気づいた。
まだ警戒はある。
だが、朝より露骨ではない。
治療院から出てきた患者たちが、家族や店先の人々へ話しているのだろう。
「普通に傷を診てもらっただけだった」
「白い術なんて使われなかった」
「治療院の先生たちも一緒にいた」
「むしろ、変な仕掛けを見つけたらしい」
噂は、通達より遅い。
だが、人の口から出た実感は、紙の命令よりも強いことがある。
エリオットはその流れを静かに見ていた。
「少しずつですね」
ミラが言うと、彼は頷いた。
「一度に覆す必要はない」
「はい」
「今日のような処置を積み重ねればいい」
ミラは少しだけ笑った。
「普通の治療をするだけでいいんですね」
「それが一番強いこともある」
その言葉に、ミラは胸の奥が軽くなるのを感じた。
夕方、《銀環堂》の奥の小部屋に、レオン・ハイムが呼ばれた。
昨日、時計塔へ踏み込んだ男性護衛である。
三十代半ばほど。背は高く、体格は引き締まっている。騎士のような華やかさはないが、無駄のない動きがある。
彼は部屋に入ると、オリヴァー、イザーク、ダリオ、エリオット、セリア、そしてミラを順に見た。
「正式な話だと聞いた」
イザークが頷く。
「護衛依頼だ。ただし普通の護衛ではない」
「時計塔で見た時点で、普通ではないのは分かっている」
レオンは落ち着いて答えた。
ダリオが腕を組む。
「昨日の動きは悪くなかった」
「それはどうも」
「褒めている」
「分かっている」
短い言葉のやり取りだったが、不思議と噛み合っていた。
オリヴァーが口を開く。
「この依頼を受けるなら、こちらの事情をかなり深く知ってもらう必要がある。知らずに巻き込むつもりはない」
レオンは椅子に腰を下ろした。
「なら、先に言っておく。知らずに巻き込まれるのは御免だ。知った上で受けるなら、それは仕事だ」
セリアが少しだけ眉を上げた。
「まともですね」
レオンは彼女を見る。
「そちらも」
「ありがとうございます。たぶん褒め言葉として受け取ります」
ミラは二人のやり取りに、少しだけ緊張を解いた。
オリヴァーは続けた。
「危険は三つある。黒い媒介を扱う禁術派の系統。エリオット君の右腕を探る騎士団に近い筋。そして、通達を使って私たちを危険人物に見せようとする政治側の圧力」
レオンは黙って聞いている。
驚いた様子はない。
「護衛として必要なのは、ミラを一人にしないこと。黒い媒介を見つけても素手で触らないこと。エリオット君の右腕の情報を外へ漏らさないこと。そして、怪しい依頼や呼び出しを見極めることだ」
レオンの視線がエリオットの右腕へ一瞬だけ向いた。
だが、すぐ戻る。
見るべきだが、見すぎない。
その節度に、エリオットは内心で評価を改めた。
「報酬は?」
レオンが尋ねる。
イザークが金額を提示する。
安くはない。
だが、この危険に対しては妥当だった。
レオンは少しだけ考えた。
「俺にはエルダントに妹夫婦がいる。母も同じ家にいる。長期で街を離れるなら、前払いの一部を妹に預けたい」
ミラは思わず顔を上げた。
「ご家族がいるんですか」
「ああ。だから危険な仕事は選ぶ」
レオンは淡々と言った。
「家族がいるから安全な仕事だけ選ぶ、という者もいる。俺は逆だ。危険な仕事ほど、依頼主が信用できるかを見る。曖昧な依頼は受けない」
ミラは胸が少し詰まった。
「それでも、いいんですか」
「説明された上で受けるなら、巻き込まれたとは言わない」
レオンはミラをまっすぐ見た。
「ただし、隠し事が必要以上に多い依頼主なら降りる。護衛は知らない危険からは守れない」
セリアが頷いた。
「同感です」
オリヴァーは、少しだけ表情を和らげた。
「なら、こちらも必要なことは共有する」
ミラは、レオンとセリアを見た。
これから旅に加わるかもしれない人たち。
危険を知った上で、それでも仕事として引き受けようとしている人たち。
申し訳なさは消えない。
けれど、隠して巻き込むより、ずっと誠実なのだと少しずつ分かってきた。
その夜、青灯亭の小会議室で、ミラは今日の治療記録を整理していた。
エリオットは隣で、患者ごとの処置内容と、治療院側の証言をまとめている。
右手はまだ補助具の中。
今日はリハビリをしない。
治療院での一日だけで、ミラもエリオットも十分に疲れていた。
「少し、街の人の目が変わりましたね」
ミラが言うと、エリオットは頷いた。
「治療院の張り紙と、今日の処置が効いている」
「普通のことをしただけなのに」
「普通のことを、普通に積み重ねるのは難しい」
ミラは筆を止めた。
エリオットの横顔を見る。
彼は記録帳を見つめたまま、静かに言った。
「君が派手な奇跡を起こさなくても、信用は作れる」
その言葉は、今日一日の疲れた心に、深く染み込んだ。
ミラは少しだけ微笑んだ。
「はい」
窓の外では、運河の水が静かに流れている。
疑いの街で、ほんの少しだけ道が開いた。
エルダントはまだ安全ではない。
けれど、ミラたちは確かに、この街に足場を作り始めていた。




