逃げた黒い影 5
治療院に戻ると、ミラはまだ処置室の入口にいた。
エリオットは彼女の半歩後ろ。院長と薬師長も、患者を遠ざけたまま待っていた。
「証拠は?」
エリオットが尋ねる。
セリアが封印袋を掲げる。
「ありました。黒い記録盤の破片、偽白樹脂片の予備、治療院の配置図、焼け残った術式紙の灰」
院長の顔色が変わった。
「本当に、外から見ていたのか」
「はい」
セリアははっきり言った。
「治療院は測定されていました」
薬師長メリッサの目に怒りが宿る。
「患者を……」
その先は言葉にならなかった。
オリヴァーは静かに言う。
「犯人は逃げました。ただし、尻尾は掴みました。術式はサリアやレーンで見た黒系と同系統。ですが、操作者には別の癖があります。セヴラン本人というより、その術式を理解した別の者の可能性が高い」
ミラは胸元の白花を握った。
別の者。
近くにいて、見ていた者。
エリオットが低く言った。
「今は、治療院を安全にすることが先です」
「その通りです」
セリアが頷く。
「では、残りを解除します。外へ逃げる線は切断済み。受信側は破棄されました。今なら、四点目と出口を封じられます」
最後の解除は、静かに進んだ。
換気口の黒粉を含んだ封蝋。
乾燥棚の偽白樹脂片。
古井戸に残った受信跡。
ミラは白花の光を使ったが、それはほんの細いものだった。
黒を払うのではない。
治療院本来の流れを戻す。
水は水として。
薬草は薬草として。
包帯は傷を守るものとして。
治療台は患者を記録するものではなく、治療を受け止める場所として。
灰色の輪は、ゆっくりほどけた。
消毒水の曇りが消えた。
包帯の灰色染みが止まった。
薬草倉庫の空気が軽くなった。
治療院の中に、久しぶりに清潔な匂いが戻る。
院長は深く息を吐いた。
「……戻った」
メリッサも棚の包帯を見て、目を伏せた。
「これで、患者を戻せます」
監視役は青ざめていた。
彼は一部始終を見ていた。
ミラは患者に触れていない。
治療行為としての白い術式も使っていない。
それでも、治療院を蝕んでいた罠は解除された。
そして罠を仕掛けた者の証拠も出た。
通達の言葉は、もう以前ほどの力を持たなかった。
作業が終わると、イザークが待ってましたとばかりに咳払いをした。
「院長。ここまで外部干渉を受けた以上、今後の対策が必要です」
院長は顔を上げる。
「対策?」
「銀環堂の外部干渉遮断具を入れろ」
イザークはきっぱり言った。
「安くはないが、二度目に患者を測定材料にされるよりは安い」
セリアがすぐに記録板を開く。
「処置室、薬草倉庫、古井戸、包帯棚。最低四箇所に反応遮断具。加えて水瓶保管棚に小型記録盤。異常が出た場合、治療院と銀環堂の双方に反応が出る形にします」
院長は少し呆気に取られた。
メリッサが問う。
「見積もりは?」
セリアは即答した。
「今日中に出せます。急ぎなら仮設置は明日。正式設置は三日後」
イザークが横で頷く。
「売上にもなる。治療院も守れる。良い取引だ」
緊張していた空気に、少しだけ別の色が混じった。
院長は疲れたように笑った。
「商売上手ですね」
「善意だけで店は続きません」
セリアは真顔で言った。
「ただし、必要なものを売るのは悪ではありません」
「その通りだ」
イザークは満足げだった。
院長は深く頷いた。
「導入します。患者を守るために」
メリッサも同意した。
「私からもお願いします」
その日の夕方、治療院の入口には新しい張り紙が出された。
――本日、院内設備の異常確認および外部干渉の遮断処置を行いました。
――一部処置室の使用を再開します。
――薬水、包帯、薬草の安全確認は継続中。
――銀環堂、魔道具職人オリヴァー・コックス、ならびに補助者ミラ・コックスの協力を得ています。
ミラの名が、通達ではなく治療院の張り紙に載った。
危険人物としてではない。
協力者として。
それは小さな一歩だった。
けれど、エルダントの街でミラたちへの見方が変わり始めるには、十分な一歩でもあった。
その夜、エルネストはエルダントの外れにある借り部屋で、拳を握りしめていた。
記録盤は失われた。
治療院の罠は解かれた。
受信線も辿られた。
証拠もいくつか残した。
失敗。
そう呼ぶには、あまりに屈辱的だった。
だが、完全な失敗ではない。
彼は白花の反応を見た。
黒を壊さず、流れを戻す力。
偽の白を見分ける感覚。
周囲の職人と技術者が、その力を暴走させないよう支える構造。
「……一人ではない」
エルネストは低く呟いた。
「あの女だけなら、もっと読めた。周りが邪魔をしている」
その声には、苛立ちと侮蔑が混じっていた。
だが、奥には焦りもあった。
遠くから測る手段は塞がれた。
治療院には遮断具が入る。
同じ手は使えない。
なら、次はもっと近くへ。
エルネストは机の上に残った黒い紙片を握りつぶした。
「先生の術式の価値を、あんな連中に否定させるものか」
窓の外で、エルダントの運河が暗く流れていた。




