指が動いたと伝える日 3
診療所へ戻ると、右腕の熱は予想通り落ち着いた。
ミラは記録をつけ、エリオットに薬草茶を出した。今日は蜂蜜を少しだけ多めに入れる。
「甘い」
「疲労回復です」
「君は何でも治療にする」
「便利なので」
エリオットは杯を左手で持ち、右手を添えた。
以前より自然に添えられている。
右手はまだ重さを支えているとは言えない。
だが、木の杯の温かさを感じ、形を捉え、ほんの少しだけ指を添える。
それだけで、二週間前の彼とは違っていた。
ミラはその様子を見て、ふと尋ねた。
「王都のご家族には、村を出ることを伝えますか?」
エリオットの手が止まった。
杯の中の薬草茶がわずかに揺れる。
「……伝える」
少し間を置いて、彼は答えた。
「黙って出るわけにはいかない」
「そうですね」
「だが、何を書けばいいのか分からない」
エリオットは杯を机に置いた。
「右腕が少し動いた。治療のために村を離れる。そう書けば、母は心配する。父もきっと、仕事を放り出して来ようとするかもしれない」
「ご両親はいつから王都に?」
「俺が騎士団に入った時、王都へ移った。父は馬具や武具に関わる仕事をしている。母は仕立て仕事をしている」
「護符はエダさんから?」
ミラが聞くと、エリオットは頷いた。
「母が持たせてくれた。王都の治療師に見放されたあと、村のエダに頼んで手に入れたらしい」
彼は右手首の護符を見る。
「俺は、最初は迷信だと思っていた」
「でも、外さなかったんですね」
「母が泣きそうな顔で渡したからな」
短い言葉だった。
けれど、その中に息子としての不器用な優しさがあった。
ミラは静かに聞いていた。
「その護符は、きっと守ってくれていました」
「そうだな」
エリオットの声は低い。
「今なら、そう思う」
彼はしばらく黙っていたが、やがてミラを見た。
「手紙を見てもらえるか」
「私がですか?」
「危ないことを書かない方がいいんだろう。君の兄からの手紙も、そういう意味だったはずだ」
「はい。詳しいことは書かない方がいいと思います」
「なら、見てほしい」
ミラは少し驚いた。
エリオットが、自分の家族への手紙を見せる。
それは、かなり個人的なことだ。
けれど彼は真剣だった。
ミラはゆっくり頷く。
「分かりました。ですが、内容を決めるのはエリオットさんです。私は、危険な情報が含まれていないか確認するだけです」
「ああ」
エリオットは頷き、机の端に置かれた紙とペンを手に取った。
もちろん、右手ではまだ書けない。
左手でペンを持つ。
慣れていないのだろう。筆先は少しぎこちなく、最初の一文字を書くまでにずいぶん時間がかかった。
ミラは口を出さなかった。
エリオットの左手が、ゆっくり文字を刻んでいく。
父上、母上。
その文字は、少し歪んでいた。
それでも、丁寧だった。
エリオットは何度も手を止めた。
言葉を探すように、窓の外を見る。
ミラはその間、薬草の整理をするふりをして、彼を見守った。
やがて、エリオットは手紙を書き終えた。
「……読んでくれ」
差し出された紙を、ミラは両手で受け取った。
そこには、短い文が並んでいた。
父上、母上
しばらく村を離れることにしました。
右腕に少し変化があり、治療を続けるためです。
無理な旅ではありません。信頼できる治療師が状態を見てくれています。
まだ剣を握れるわけではありません。
けれど、指が動きました。
詳しいことは、落ち着いたらまた書きます。
どうか心配しすぎないでください。
エリオット
ミラは、途中で息を止めていた。
まだ剣を握れるわけではありません。
けれど、指が動きました。
たったそれだけの一文。
けれど、そこに込められた重みを思うと、胸が詰まった。
ミラにとって、指が動いたことは治療記録の一項目だった。
親指屈曲。
人差し指反応あり。
軽木棒保持。
温度感覚あり。
でも、エリオットにとっては違う。
そして、彼の両親にとっても。
二年間、もう戻らないと思っていた息子の右手。
王都の治療師に治らないと言われ、故郷へ帰らせるしかなかったその手。
それが、動いた。
その知らせが、どれほどのものか。
ミラは手紙から目を上げられなかった。
「……何か、まずいことはあるか」
エリオットが尋ねる。
ミラは小さく首を振った。
「ありません。詳しいことは書かれていませんし、治療継続のための移動という説明で十分だと思います」
「そうか」
「ただ……」
「ただ?」
「“信頼できる治療師”と書いてあります」
エリオットは一瞬黙った。
「事実だろう」
何の迷いもない声だった。
ミラの顔が熱くなる。
「いえ、危険な情報ではないので、そのままでいいです」
「なら、なぜそこを言った」
「確認です」
「そうか」
エリオットは、少しだけ口元を緩めた。
ミラは手紙を返しながら、視線を合わせないようにした。
「ご両親は、きっと喜ばれると思います」
「心配するだろう」
「それでも、喜ばれると思います」
エリオットは手紙を見下ろした。
左手で書いた不格好な文字。
それを、彼はしばらく黙って見つめていた。
「……指が動いたと書ける日が来るとは思わなかった」
低い声だった。
ミラは胸の奥がきゅっと痛む。
「私も、そう書いてもらえる日が来て嬉しいです」
エリオットが顔を上げる。
「君が嬉しいのか」
「はい」
ミラは少しだけ微笑んだ。
「治療師なので」
エリオットは何か言いかけて、やめた。
その代わり、静かに言う。
「なら、もっと書けるようになる」
「え?」
「次は、杯を支えられたと書く。いつか、剣を握れたと書く」
ミラは目を見開いた。
それは、約束のようだった。
誰に対してのものか。
両親に対してか。
自分自身に対してか。
それとも、ミラに対してか。
分からない。
けれど、ミラは頷いた。
「はい。書けるようにしましょう」




