治療院の灰色 3
治療台の脚の裏には、薄い黒木札が貼られていた。
小指ほどの大きさ。
黒蜜のようなものが薄く塗られ、木目に紛れるように隠されている。
反応針は、やはり薄く曇った。
黒変はしない。
けれど、四箇所揃った瞬間、ミラにははっきり見えた。
水瓶。
包帯棚。
換気口。
治療台。
四つが細い灰色の線で結ばれ、処置室全体をゆるく囲んでいる。
汚染ではない。
囲いだ。
治療院の中で治療が行われるたび、治癒魔法や薬草の流れを少しずつ鈍らせる。そして、そこへ白い力が触れた時、どこからどう反応したかを測る。
ミラは一歩後ろへ下がった。
エリオットがすぐに気づく。
「ミラ」
「大丈夫です。記録できます」
「本当に?」
「本当に」
それは、いつも自分がエリオットに言う言葉だった。
そう思って、ミラは少しだけ苦笑しそうになった。
けれど今は笑えない。
「これは、治療院を壊すためというより……見ている感じがします」
オリヴァーの目が細くなる。
「測定罠か」
セリアが低く息を吐いた。
「嫌な言葉ですね。でも、しっくりきます」
院長の顔色が変わった。
「測定……?」
オリヴァーは慎重に説明した。
「一つ一つは弱い。だから大きな被害は出ない。しかし、治療院全体の治療効果を鈍らせる。そして、何らかの力がこれに干渉した時、その反応を拾う構造かもしれません」
「つまり、誰かがこの治療院を使って、何かを試していると?」
「可能性はあります」
薬師長メリッサの顔が怒りで強張った。
「患者を使って?」
セリアが静かに言った。
「まだ断定はできません。でも、少なくともこれは自然に発生したものではありません」
院長は監視役を見た。
「役所へ報告します」
監視役は動揺していた。
「それは……確認後に」
セリアが即座に記録する。
「監視役、報告を保留する旨を発言」
「違う!」
「では、即時報告でよろしいですね」
監視役は言葉に詰まった。
イザークが低く笑った。
「いい仕事をする」
結局、その日は媒介を外さなかった。
院長は不安そうだったが、オリヴァーは断言した。
「順番を読まずに外すと、黒い反応が広がる可能性があります。今日は配置と反応写しを取るだけにしましょう」
ミラも頷いた。
「黒を掴まない方がいいです。今、触れると広がる感じがします」
薬師長は唇を噛んだ。
「では、患者は」
「重症処置は別室で行ってください。消毒水は銀環堂から一時的に持ち込むものを使う。包帯も新しいものを封を切ってください。薬草倉庫は、換気口側の棚を避けます」
セリアが次々に指示した。
「灰色染みの出た包帯は隔離。水瓶は触れずに封じ印。治療台は使用停止。別室の台を使う。患者の動線を変えてください」
薬師長はすぐに動き出した。
彼女の目には、もうミラへの疑いよりも、治療院を守る焦りがあった。
院長も深く頷く。
「分かりました。今日のところは、応急的に処置室を変えます。明日、改めて確認を」
「はい」
オリヴァーが答えた。
「明日は、四点の繋がりを調べます。解除はまだしません」
「まだ?」
監視役が思わず聞き返す。
セリアが冷ややかに言った。
「一日で解決する程度の仕掛けなら、ここまで厄介な異常は出ません」
ミラは、その言葉に深く頷いた。
焦ってはいけない。
サリアで学んだばかりだ。
治療院を出る頃、ミラへの視線は少し変わっていた。
最初は警戒と疑い。
けれど今は、困惑と期待が混じっている。
ミラは患者に触れていない。治療魔法も使っていない。
それでも、治療院に仕込まれた異常を見つけた。
薬師長メリッサは、玄関先でミラに小さく頭を下げた。
「今日は助かりました。……まだ、あなたをどう判断すべきか、正直分かりません」
ミラは少しだけ緊張した。
メリッサは続ける。
「でも、通達に書かれていたような危険な治療師には見えませんでした。少なくとも、今日のあなたは患者に触れず、治療院の異常を見つけた」
「私は、見えたものを言っただけです」
「それが必要だったんです」
その言葉は、ミラの胸に静かに残った。
銀環堂へ戻る道中、セリアは歩きながら記録板を整理していた。
「明日は四点の反応写しを重ねます。水瓶、棚、換気口、治療台。それと患者動線の図。エリオットさんの配置図も必要です」
「用意します」
エリオットが答える。
「ミラさんは、今日見た灰色の線の方向を思い出して、あとで書いてください。感覚でも構いません。私が図に落とします」
「はい」
「あと、黒を掴まなかったのは正解です」
ミラは顔を上げた。
セリアは前を向いたまま言う。
「もし今日、ミラさんが力任せに払っていたら、多分、仕掛けた相手にかなりの情報が渡っていました」
「……相手は、見ているんでしょうか」
「直接か、間接かは分かりません。でも、これは見られるための罠です」
セリアの声は冷静だった。
「だから、明日からはこちらも見返すつもりで動きます」
ミラは、その横顔を見た。
頼もしい人だと思った。
少し厳しい。
でも、ちゃんと味方として厳しい。
エルダントの少し離れた建物の上階で、一人の若い男が黒い記録盤を見つめていた。
盤面には、四つの小さな点が浮かんでいる。
水瓶。
包帯棚。
換気口。
治療台。
そのうち一つが、白く薄く揺れた。
男は眉を寄せる。
「……触れなかった?」
予想よりも慎重だった。
白い治療師は、反応を見た。
だが、黒を掴まなかった。壊しもしなかった。
そして、職人たちは外さなかった。
全体を読もうとしている。
男の指が、記録盤の縁を強く掴む。
「先生の術式を……一日目で、外側だけとはいえ読む?」
苛立ちが喉元まで上がってきた。
だが、彼はそれを飲み込んだ。
「まだだ」
小さく呟く。
「これは測定の第一層。明日、どこまで見えるかで分かる」
彼の名は、まだエルダントの誰にも知られていない。
ただ、黒い盤面の向こうで、白花の反応をじっと見つめていた。




