青灯亭の作戦会議 2
会議が一段落すると、部屋には少しだけ重い沈黙が残った。
エルダントに着けば落ち着けると思っていた。
けれど実際には、街全体に通達が回り、治療院には異常があり、護衛探しも簡単ではない。
ミラは机の上の記録帳を見つめた。
サリアからライヘルへ出した第一報は、まだ王都には届いていないだろう。今頃、レーンかリンドルのどこかを慎重に経由しているはずだ。
兄からの返事も、解析も、まだない。
それでも進まなければならない。
「ミラ」
エリオットの声に、ミラは顔を上げた。
「右手の確認を頼みたい」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
オリヴァーがすぐに頷く。
「ここでやろう。窓は閉めてある。ダリオ、廊下を」
「見てくる」
ダリオが外へ出る。
ロアンは記録帳を新しいページへ開いた。
「私は記録でいいですか?」
「必要な範囲だけ」
オリヴァーが言う。
「細かい共鳴記録は別封にする。外へ出すものと分ける」
「はい」
エリオットは椅子に座り、右腕の補助具を机の上に乗せた。
ミラは向かいに座る。
「痛みは?」
「二から三。移動で少し張りはある。熱は手首から手のひら。肩まではない」
「薬指と小指は?」
「薬指の位置は分かる。小指は圧がある。手のひらは、布に触れた感覚がまだ残っている」
「動かしましたか?」
「動かしていない」
「本当に?」
「本当に」
ミラはほんの少しだけ息を吐いた。
「では、確認します。これは訓練ではありません。治療経過の確認です。痛みが増えたら中止。成功しても追加確認は禁止です」
「分かっている」
エリオットの返事は穏やかだった。
以前のような焦りはない。
ミラは白花の光を細く灯し、補助具の隙間から右手の流れを見た。
黒い封じはまだ深い。
けれど、サリアで祠の水が戻った後から、白い流れは確実に変わっていた。
薬指へ向かう流れは、細いながらも途切れていない。小指側にも、白い点が二つ、いや三つある。手のひらの中心にも、淡い光が滲んでいた。
「手のひらの白流が、前よりはっきりしています」
ミラは囁くように言った。
「今日は、布に触れるだけにしましょう」
オリヴァーが白石布ではない普通の柔らかい布を机に置く。
「魔力反応のない布だ。確認用に使う」
ミラはエリオットの右手を補助具ごと少しだけ安定させ、布の端を手のひらの下へ差し込んだ。
「握らないでください。押さえようとしなくていいです。ただ、触れているかどうかを感じてください」
エリオットは目を伏せる。
部屋が静まる。
遠くで、運河の水音がかすかに聞こえた。
「……温かい」
エリオットが低く言った。
ミラは目を見開く。
「布が?」
「いや、布そのものは冷たい。だが、手のひらに触れている場所が分かる。温度の差がある」
ロアンが急いで記録する。
ミラは声を抑えた。
「痛みは?」
「変わらない」
「動かそうとしていますか?」
「していない」
「そのまま。十数えたら終わりです」
ミラがゆっくり数えた。
一。
二。
三。
エリオットの表情は変わらない。
けれど、左手が膝の上で固く握られていた。
四。
五。
六。
右手は動かない。
でも、布に触れている。
七。
八。
九。
十。
「終わりです」
ミラはすぐに布を外した。
エリオットは深く息を吐いた。
「残っている」
「感覚が?」
「ああ。手のひらに、布の端の感覚が残っている」
ミラは記録帳へ書き込んだ。
――右手掌、温度差および接触位置の感覚あり。
――薬指位置感覚維持。小指圧覚維持。
――動作確認なし。追加確認禁止。
――外部秘匿継続。
オリヴァーが隣で静かに言った。
「大きい進展だ」
その声は抑えられていた。
喜びすぎないようにしているのだと分かった。
エリオットも、静かに頷いた。
「剣はまだ先ですね」
「当然です」
ミラが即答した。
「紙を押さえるのも、今日はまだしません」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
今度はロアンが笑いをこらえきれず、少しだけ肩を震わせた。
ミラも、ほんの少し笑った。
大きな奇跡ではない。
けれど、確実な一歩だった。
確認が終わると、ダリオが戻ってきた。
「廊下は問題ない。外の通りに怪しい影はあったが、宿へは入ってきていない」
「剣を知る密偵か」
エリオットが問う。
「断定はできん。ただ、青灯亭の前を通る回数が多い奴がいる。右手は見せるな」
「はい」
ダリオはエリオットの右腕をちらりと見た。
「進んだか」
「手のひらに布の感覚が戻りました」
ダリオは一瞬だけ目を細めた。
「なら、なおさら隠せ」
「分かっています」
「焦るなよ。戻りかけは、折れた骨より脆い」
その言い方は少し乱暴だったが、エリオットは素直に受け取った。
「覚えておきます」
夜が更ける頃、ミラは自室でサリアの白花を確認した。
白石布に包まれた花は、まだ淡い温かさを保っている。
窓の外では、運河の水音が静かに流れていた。
水の音。
サリアの水車とは違う。
けれど、ミラの胸元の白花はわずかに反応している。
エルダントの治療院で起きている異常。
消毒水の曇り。
包帯の染み。
薬効低下。
それがもし、誰かの仕掛けたものなら。
ミラは白花をそっと包み直した。
「黒を掴まない。戻る道を見る」
自分に言い聞かせる。
明日、治療院へ行く。
治療師としてではなく、職人の補助として。
それでも、困っている人がいるなら、自分に見えるものを見ないふりはできない。
翌朝。
青灯亭の食堂には、早い時間からオリヴァー、エリオット、ミラ、ロアン、ダリオが揃っていた。
食事を終える頃、銀環堂から迎えが来た。
セリアだった。
革手袋をはめ、白石布の筒と小型の反応針を腰に下げている。
「治療院側の準備が整いました」
彼女は淡々と言った。
「院長、薬師長、銀環堂、そして役所の監視役が立ち会います。ミラさんは職人補助扱いです。患者には触れない条件」
「分かりました」
ミラは立ち上がる。
エリオットは記録帳を手に取った。
右手は補助具の中。
外からは、何も変わっていない。
だが、彼自身は知っている。
右手は、布の温度を覚えた。
ミラはその右手に一瞬だけ視線を落とし、それから前を向いた。
「行きましょう」
青灯亭の外では、エルダントの朝が始まっていた。
運河に光が落ち、荷船がゆっくり動き出す。
疑いに満ちた街の中で、ミラたちはまず、治療院へ向かった。




