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白花の村をあとに 2

 出発の前に、マルコ村長が一行へ深く頭を下げた。

「サリアは、あなた方のことを忘れません」

 ミラは慌てて手を振る。

「あの、本当に私は――」

「分かっています。あなたは旅治療師だ」

 マルコは穏やかに言った。

「だからこそ、我々は忘れません。女神ではなく、人としてこの村を助けてくれたことを」

 その言葉に、ミラは何も言えなくなった。

 ただ、深く頭を下げる。

「……どうか、お大事に」

 水車の音が響く。

 ごとり、ごとり。

 軽く、澄んだ音。

 その音に見送られながら、ミラたちはサリア水車村を後にした。

     

 街道へ出ると、村の水音は少しずつ遠ざかっていった。

 夏の陽射しは強い。サリアの中は水路と木陰のおかげで涼しかったが、村を離れると空気は一気に乾いて熱を帯びる。

 ミラは水袋を口にした。

 今度は、エリオットに言われる前に。

 それに気づいたエリオットが、少しだけ目を細める。

「良い判断だ」

「先に言われる前に飲みました」

「成長している」

「その言い方、父さんみたいです」

 オリヴァーが荷馬車の上から言う。

「私はそんなに偉そうかな」

 ロアンが小声で呟いた。

「わりと」

「ロアン」

「何でもありません」

 少しだけ笑いが起きた。

 サリアを出たばかりだというのに、緊張が完全に消えるわけではない。けれど、こうして笑える時間があることに、ミラはほっとした。

     

 昼過ぎ、彼らは街道脇の木陰で休憩を取った。

 エルダントまでは馬車で二日半ほどかかる。今日は水路沿いの小さな宿場まで進む予定だった。

 荷馬車の影に腰を下ろすと、オリヴァーが静かに切り出した。

「ミラ。エリオット君。ここで一度、今後の危険について話しておきたい」

 ミラの表情が引き締まる。

 エリオットも姿勢を正した。

 オリヴァーは街道の先を見ながら続けた。

「今、私たちに向いている圧力は一つではない」

 風が草を揺らす。

「一つ目は、黒い媒介を扱う禁術派の系統。グレイル村、レーン、サリア。術式の形は違うが、根は同じだ」

 ミラは頷いた。

 黒い種。

 命令痕。

 水車の木札。

 祠下の銅片。

 すべてが、流れを歪めていた。

「二つ目は、エリオット君の右腕を探っている者たち。騎士団に近い筋、あるいは剣を知る者を使っている誰かだ。個人名は分からない。だが、右腕の回復を警戒している」

 エリオットは静かに目を伏せた。

「三つ目は、役人や男爵を通して動く政治側の圧力。サリアでの足止めは、ただの現地判断ではない。白花の噂を広げたくない者がいる」

 ミラの手が膝の上で強く握られる。

「私が、目立ったから……」

「違う」

 エリオットが即座に言った。

 ミラは驚いて彼を見る。

「君が悪いわけではない。サリアの水は、君が来る前から歪められていた。患者も苦しんでいた。君はそれを見つけた」

 オリヴァーも頷く。

「見つかったから危険になったのではない。元から危険だったものが、君の力で見えるようになったんだ」

「でも、私が白花を反応させたせいで、村の人たちも、父さんたちも……」

「ミラ」

 オリヴァーの声は優しかったが、逃がさない強さがあった。

「君が何もしなければ、患者は苦しみ続けた。水は歪んだままだった。黒い媒介は残った。どちらがよかったと思う?」

 ミラは答えられなかった。

 答えは分かっている。

 それでも、怖いものは怖い。

 エリオットが静かに言った。

「怖がっていい。だが、自分のせいだとは思うな」

 その言葉に、ミラの胸がきゅっと詰まった。

「今後は、君自身も見られる」

 オリヴァーは続けた。

「エリオット君だけではない。白花の力を持つ治療師として、ミラ、君も相手にとって重要な存在になった。だからエルダントで護衛と助手を増やす」

「……はい」

「君たちが弱いからではない。狙う側が増えたからだ」

 その言葉は、昨日も聞いた。

 けれど街道の上で聞くと、さらに現実味があった。

 サリアを出た。

 もう戻れない。

 次の街では、また別の形で圧力が待っている。

     

 休憩を終える前に、エリオットは小声でオリヴァーへ言った。

「右手のリハビリは、エルダントまで控えます」

「道中では確認だけだね」

「はい。密偵の目があります」

 ダリオが荷馬車の向こうから低く言う。

「後方に一人。距離を取ってる。サリアの男か、別の者かはまだ分からん」

 ミラの顔がこわばる。

 エリオットは落ち着いた声で言った。

「右手は使わない。外では変化を見せない」

「エルダントに着いたら、閉じた場所で再開しよう」

 オリヴァーが言う。

「紙を押さえる。布に触れる。小瓶に添える。剣はまだ先だ」

「分かっています」

 ミラがじっとエリオットを見る。

「本当に、剣はまだ先です」

「分かっている」

「追加確認も禁止です」

「それも分かっている」

 エリオットの返事に、ミラは少しだけ安心したように頷いた。

 オリヴァーはその二人を見て、わずかに笑った。

 患者と治療師だった二人は、もうただの患者と治療師ではない。

 互いに止め、互いに守り、互いの変化を記録する相棒になっている。

     

 その日の夕方、彼らは小さな宿場に着いた。

 水路沿いに数軒の宿と馬小屋が並ぶだけの、旅人のための場所だった。サリアの噂はまだ届いていないようで、宿の主人はミラたちを普通の旅人として迎え入れた。

 それが、かえってありがたかった。

 夕食の後、ミラは部屋でサリアの白花を白石布へ包み直した。

 花は、まだほんのり温かい。

 ライヘルへ送る写しは、今頃レーンへ向かう便に乗っているはずだ。エルダントへ着く頃には、王都へ向かう次の便に移されるだろう。

 兄がこれを読んだら、何を思うだろう。

 心配するだろう。

 頭を抱えるだろう。

 それでも、きっと調べてくれる。

 自分を研究対象としてではなく、守るために。

 ミラは白花をそっと鞄へしまった。

 窓の外では、宿場の水路が細く流れている。

 サリアの水車ほどではないが、その音は静かに夜を満たしていた。

 流れは、次の街へ向かっている。

 ミラもまた、その流れの中にいた。


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