白花の村をあとに 1
サリア水車村を発つ朝、水車の音は軽かった。
ごとり、ごとり。
昨日までの重い響きはもうない。夏の陽射しを受けて、水路の水はきらきらと光り、白い花は祠のそばで静かに揺れていた。
ミラは、出発前にもう一度だけ患者たちを診て回った。
最初に診た男の子の熱は、ほとんど下がっていた。喉の流れも、昨日よりずっとまっすぐになっている。粉挽き職人の老人も、椅子に座れるほどには回復していた。もう一人の患者も、食欲が戻り始めている。
「まだ数日は無理をしないでください。薬はリーナさんの指示通りに。祠の水は、しばらく井戸水と混ぜて使ってください」
そう言うと、男の子の母親は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、白花様」
「ミラです」
ミラは少し困った顔で訂正した。
「私は女神様でも、その使いでもありません。旅治療師です」
母親は涙ぐんだまま微笑む。
「はい、ミラ様」
「様もいりません……」
横にいたエリオットが、わずかに口元を緩めた。
「諦めた方がいいかもしれない」
「エリオットさんまで」
「少なくとも、村を出るまでは」
ミラは小さく唸った。
その様子を見て、リーナが笑う。
「いいじゃないか。あんたが偉そうにしないから、余計にありがたがられるんだよ」
「それは困ります……」
「困ってるくらいがちょうどいいさ。自分で女神様を名乗る治療師なんか、信用できないからね」
リーナの言葉に、ミラは返す言葉を失った。
村長マルコの家では、最後の確認が行われていた。
水車の点検手順。
祠の水の使用記録。
患者の経過観察表。
黒い木札や黒糸らしき異物を見つけた場合の対応。
リンドルとエルダントへの連絡経路。
オリヴァーは、それらを一つずつマルコへ説明していた。
「異変があっても、絶対に素手で触らないでください。黒い糸、黒蜜跡のある木札、冷たい銅貨、黒ずんだ薬草紙。どれも危険です」
「心得ました」
「連絡は、まずレーンのマルタさんか、リンドルの魔道具屋へ。今後しばらく、私たちはエルダントへ向かいます。エルダントでは魔道具屋《銀環堂》を中継にします」
マルコは書き留めながら頷く。
「《銀環堂》ですね」
「はい。サリアから王都へ直接送るのは避けてください。途中で読まれる可能性があります」
ロアンが横で、封筒を三つに分けていた。
一つ目は、ライヘル宛ての第一報。
内容は、祠と水車の反応写し、患者の経過、白花反応の概要。
二つ目は、リンドル魔道具屋宛て。
サリアで見つかった媒介の種類、今後の連絡先、エルダントへ向かう旨。
三つ目は、レーンのマルタ宛て。
サリアが落ち着いたこと、薬草経由の連絡が役に立ったこと、今後も異変があれば繋いでほしいという礼と依頼。
実物の黒い木札や銅片、白花水の白石布は送らない。
それらはオリヴァーが封印箱に収め、エルダントまで持っていく。
「ライヘルには、写しだけ先に届く形ですね」
ミラが言うと、オリヴァーは頷いた。
「実物はエルダントで封印を整えてから送る。サリアから直接出すには危険すぎる」
「兄さん、驚くでしょうね」
「驚くだろうね」
オリヴァーは少しだけ苦い顔をした。
「そして、頭を抱えると思う」
その様子が目に浮かび、ミラは少しだけ笑った。
祠の前では、ネリアが待っていた。
苔むした石の祠のそばで、白い花が揺れている。水は澄み、細い流れは水車へ向かってまっすぐ伸びていた。
ネリアは、小さな白花の束をミラへ差し出した。
「持っておいき」
「昨日もいただきました。そんなに頂いては……」
「昨日のは記録用だろう。これは餞別だよ」
ミラはためらいながら、白花を受け取った。
花はほんのり温かい。
夢で聞いた声が、胸の奥で遠く響いた気がした。
――戻る道を。
ミラは祠へ向かって、静かに頭を下げた。
「助けられたのは、私の方かもしれません」
ネリアは目を細める。
「祠も水も、あんたを覚えた。いつかまた、水の音が聞こえたら、耳を塞ぐんじゃないよ」
「……はい」
「ただし、一人で来るんじゃない」
その言葉に、背後のエリオットが即座に頷いた。
「それは守らせます」
「エリオットさん」
「必要なことだ」
ネリアは満足そうに笑った。
「いい相棒がいるね」
ミラは少しだけ頬を赤くし、白花を胸元に抱えた。
村の入口には、多くの村人が集まっていた。
患者の家族、粉挽き職人たち、水車番、薬草師、村長。皆が口々に礼を言う。
その中に、男爵側の役人の姿もあった。
彼は少し離れた場所に立ち、苦々しい顔でミラたちを見ている。昨日までのように大声で止めることはしなかった。もう、村人の前で強く出られる空気ではない。
だが、敵意が消えたわけではない。
むしろ、内側へ沈んだ分だけ厄介に見えた。
エリオットはその視線を感じながら、ミラの半歩後ろに立つ。
右腕は補助具の中に収めたまま。外からは何も変わっていないように見える。
だが、彼の右手には、昨夜の感覚が残っていた。
薬指。
小指。
手のひら。
布を押さえた、ほんの一瞬の感触。
それを外へ見せるつもりはなかった。
ダリオが荷馬車の側に立ち、周囲を見ている。
村の外れには、まだ剣を知る密偵らしき男の気配があった。今朝は姿を隠しているが、完全に去ったとは思えない。
ダリオは低く言った。
「ついてくるだろうな」
エリオットも小さく頷く。
「ええ」
「右手は見せるな」
「分かっています」
「分かってるならいい」
その短いやり取りを聞き、ミラは一瞬だけ不安そうにした。
エリオットはすぐに視線を向ける。
「心配しなくていい」
「でも」
「警戒している。それだけだ」
ミラは唇を引き結び、頷いた。




