白花の名が広がる日 2
夕方、オリヴァーはミラたちに今後の方針を示した。
「次の街、エルダントまでは私も同行する」
ミラはほっとした顔をした。
エリオットも、表情は大きく変えなかったが、少しだけ肩の力が抜けた。
「エルダントまでは馬車で二日半。道中に小さな宿場が一つある。街道と水運の交差点だから、工房や治療院、荷運び組合もある」
「そこで体制を整えるんですね」
エリオットが言うと、オリヴァーは頷いた。
「そうだ。もう二人だけで動く段階ではない」
ミラが少し目を伏せる。
オリヴァーはすぐに言葉を足した。
「君たちが弱いからではない。相手が増えたからだ」
その言葉は、静かだが重かった。
「政治の手。騎士団に近い武人の目。黒い媒介を扱う者。王都で動く者たち。これからは、ミラが患者を診て、エリオット君がすべてを見る、という形では足りない」
ロアンが記録を取りながら頷く。
「エルダントでは、工房の伝手を使います。信頼できる護衛と、反応写しを扱える助手を探すんですよね」
「そうだ」
オリヴァーはミラを見た。
「今後、君の力が反応した時、その場でサンプルを採る人が必要になる。水、布、薬草、白石布、患者の変化。全部を記録しなければならない」
次に、エリオットを見る。
「君の右手のリハビリも、密偵に悟られない場所で再開する。ミラの監督下で、段階的に。人前では使わない」
「分かっています」
「紙を押さえる。布に触れる。小瓶を支える。最初はそれだけだ。剣はまだ先」
「はい」
エリオットは素直に頷いた。
以前の彼なら、そこで苦い顔をしたかもしれない。
けれど今は違う。
戻りかけたものを守ることが、取り戻すために必要なのだと知っている。
「エルダントでは治療院の手伝いもできるだろう」
オリヴァーは続けた。
「ミラは患者を診ながら、サリアで起きたことを整理する。エリオット君は記録とリハビリ。私は工房の伝手を当たる。ロアンはサンプル整理。ダリオは外周警戒と護衛候補の見極めだ」
ミラは小さく息を吸った。
旅が変わっていく。
ただ村から村へ治療して回るだけの旅では、もうなくなっている。
けれど、怖いだけではなかった。
父がいる。
エリオットがいる。
ロアンがいる。
ダリオがいる。
ライヘルも、遠く王都で記録を待っている。
一人ではない。
その頃、サリアの現地役人は、村を離れる準備をしていた。
正確には、離れざるを得なかった。
村人たちはもはや彼の言葉を以前のようには聞かない。水車の黒い木札も、祠の銅片も、患者の回復も、あまりにも多くの者が見てしまった。
彼が「不審な術式」と叫ぶたび、村人たちの目は冷たくなる。
男爵へ送った報告の返事は、叱責だった。
――なぜ祠へ近づけた。
――なぜ村人の前で白い反応を許した。
――監視が証人を増やしてどうする。
――以後、治療師一行の動向を追跡し、次の街へ報告を回せ。
役人は紙を握りしめ、唇を噛んだ。
自分だけが悪いのではない。
水車には本当に異物があった。
患者は本当に回復した。
村長も薬草師も水車番も、全員が治療師を支持した。
あの場で止めきれるはずがなかった。
だが、上はそんな事情を斟酌しない。
彼は苛立ちのまま、部下へ命じた。
「エルダントへ先触れを出せ。白い術式を使う旅治療師と、退役騎士が向かう。治療活動には注意を要する、と」
「はい」
「それから、祠の件は不用意に話すな。村人の混乱として処理する」
だが、それがもう遅いことを、役人自身も分かっていた。
白花の噂は、すでに水路を伝うように村の中を流れ始めていた。
王都では、ベルトラン・ゼーヴァルト侯爵が男爵からの報告を読んでいた。
読み進めるほど、彼の表情は冷えていく。
水車の媒介発見。
祠下の銅片除去。
白花反応。
患者回復。
村人多数が目撃。
現地役人も監視記録を残している。
最悪だった。
白い噂は、ただの民間信仰ではなくなった。
記録された。
証人が生まれた。
しかも、その場にはエリオット・バーンスタンがいた。
「白花の娘と、戻り始めた剣か」
ベルトランは低く呟いた。
側近は何も言わない。
侯爵は、机の上の銀鈴を鳴らした。
「エルダント方面に手を回せ」
「治療院へ、ですか」
「治療院、役所、荷運び組合。すべてだ。白い術式を使う旅治療師には注意喚起を出す。不審な治療活動、村人を扇動する恐れ、水利不安を煽る可能性。名目は何でもいい」
「退役騎士は」
「身分照会を急がせろ。バーンスタンの名が表へ出る前に、動きを縛る」
ベルトランは握りつぶした報告書を机に置いた。
「希望は、民に見せる前に疑いへ変えるものだ」
別の場所でも、サリアの報告は届いていた。
騎士団に近い筋へ送られた密かな報告。
――退役騎士エリオット・バーンスタン、右腕は外見上大きな回復なし。
――ただし、立ち位置、反応速度、護衛判断は改善。体力も回復傾向。
――旅治療師ミラ・コックス、白い治療術によりサリア水場異常を鎮静。村人の支持を得る。
――両名の結びつきは強く、切り離しが必要。
――右腕の詳細確認は困難。護衛役により視界を遮られる。
報告を読んだ男は、眉間に深い皺を刻んだ。
これまで危険なのは、エリオットの復帰だった。
だが、今は違う。
エリオットを戻す治療師。
村人の支持を集める白い術式。
黒いものを退ける力。
ミラ・コックスもまた、危険分子として扱わねばならない。
男は報告書を閉じた。
「次の街で、もっと近くから見ろ」
そう命じる声は低かった。
「右腕だけではない。治療師もだ」
黒い研究室では、セヴラン・ノックスが水晶盤を見ていた。
サリアの祠を示す黒い線は、一部が白く断たれている。
水車。
祠。
白花。
守る剣。
それらが、彼の盤面で新しい形を取り始めていた。
「祠の媒介まで押し出しましたか」
セヴランは楽しげに言った。
だが、その笑みはどこか冷たい。
「黒を壊さず、流れを戻す。なるほど。女神の古い加護とは、こういう性質でしたか」
研究員が恐る恐る尋ねる。
「次は、どうされますか」
セヴランは少しだけ目を細める。
水晶盤の端に、ひとつの黒点が浮かんでいた。
まだ表へ出していない、理解できる駒。
「そろそろ、観察するだけでは足りないかもしれませんね」
彼は静かに言った。
「ただの運び手ではなく、術式を理解できる者が必要です」
研究員は息を呑んだ。
セヴランは微笑む。
「もう少しだけ待ちましょう。白花がエルダントへ向かうなら、良い舞台になります」
翌朝、サリア水車村の人々は、ミラたちを見送る準備をしていた。
まだ全員が元気になったわけではない。
祠の水も、しばらく確認が必要だ。
村には、役人の残した不快な影もある。
それでも、水は流れ始めた。
ミラは祠から贈られた白花を大切に鞄へしまい、エリオットは記録帳を抱え、オリヴァーは封じたサンプルを荷へ積む。
次に向かうのは、エルダント。
休むためではない。
立て直すために。
水車の音が、背後で軽く回っている。
ごとり、ごとり。
その音は、もう閉じた輪ではなかった。
流れは、次の場所へ向かい始めていた。




