白花の名が広がる日 1
祠の水が澄んだ翌朝、サリア水車村には、いつもより早く人の声が満ちていた。
水車は軽く回っている。
ごとり、ごとり。
その音は、昨日までのように何かを引きずる重さを含んでいない。水が落ち、輪が回り、流れが次へ渡される。たったそれだけのことが、村人たちには奇跡のように感じられた。
実際、患者たちの熱は下がり始めていた。
最初に診た男の子は、朝には自分で粥を少し食べられるようになっていた。粉挽き職人の老人も、夜中に汗をかいた後、喉の重さが薄れたという。もう一人の患者も、顔色が昨日より明るい。
リーナは三人の経過を見て、深く息を吐いた。
「戻ってるね」
ミラは男の子の手首に触れ、白い流れを見た。
昨日まで、喉から胸へ向かう流れは同じ場所を回るように曲がっていた。けれど今は、完全ではないものの、流れは本来の道を思い出しつつある。
「まだ弱いです。でも、もう同じところを回っていません」
ミラが言うと、母親は両手で顔を覆った。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
「まだ様子を見ましょう。今日と明日は、祠の水だけで薬を煎じず、井戸水と混ぜてください。体力が戻るまで、無理は禁物です」
いつも通り、慎重に言ったつもりだった。
けれど、母親はその言葉を聞くなり、ミラの前に膝をついた。
「白花様……」
ミラは固まった。
「えっ」
「女神様が、あなたを遣わしてくださったんですね」
「ち、違います。私は治療師です」
「でも、祠が応えました。白い花が流れて、水が澄んで……この子の熱も下がったんです」
母親の声は震えていた。
周囲にいた村人たちも、同じような目でミラを見ている。
感謝。
畏れ。
期待。
そのすべてが、ミラの肩に乗ろうとしている。
「私は、女神様ではありません」
ミラはもう一度、はっきり言った。
「水が戻ろうとする道を、少し見られただけです。祠の水が自分で戻ったんです。私は……ただ、手伝っただけで」
「それでも、あんたが来なければ戻らなかった」
ネリアが静かに言った。
水車番の老婆は、祠の方を見ている。
「白花の娘。昔の言い伝えでは、そう呼ぶんだよ」
「ネリアさんまで……」
「女神様そのものだなんて言っちゃいない。けど、祠があんたに応えたのは事実だ」
ミラは困り果てた顔で、後ろを振り返った。
そこにいたエリオットが、すぐに半歩前へ出る。
「ミラは治療師です。祠の異常を確認し、患者を診て、必要な処置をした。それ以上のものを彼女一人に背負わせないでください」
声は穏やかだった。
けれど、よく通った。
村人たちは少し気圧されたように黙る。
オリヴァーも続けた。
「水が戻り始めたのは、村の皆さんが声を上げ、ネリアさんが水を汲み、リーナさんが薬を見直し、マルコ村長が責任を取って依頼したからです。ミラ一人の奇跡ではありません」
ミラは、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
一人で奇跡を起こす役目ではない。
ライヘルの手紙の言葉が、また胸に灯る。
その日の午前、オリヴァーはサリア村の人々へ手順を残した。
祠の水は、しばらく井戸水と混ぜて使うこと。
熱病患者には、祠水だけで煎じた薬を避けること。
水車軸の点検は毎朝行うこと。
水の濁り、白花の萎れ、軸の異音があれば記録すること。
黒い木札や黒糸のような異物を見つけても、絶対に素手で触らないこと。
異常があれば、リンドルの魔道具屋、またはエルダントの工房取引所へ連絡すること。
村長マルコは、そのすべてを真剣に書き写した。
「この村は、あなた方に助けられました」
マルコは言った。
「だが、これからは我々が守らねばなりませんね」
「はい」
オリヴァーは頷いた。
「グレイル村でも、レーンの集落でも同じでした。外から来た者がすべてを解決するのではなく、村の人たちが異変を早く見つけられるようにする。それが大事です」
「心得ました」
ネリアは祠の白花を一輪、ミラへ差し出した。
「持っていきなさい」
ミラは戸惑う。
「いいんですか?」
「祠があんたに応えた。なら、あんたが持っていても怒られやしないよ」
ミラは慎重に花を受け取った。
その白花は、摘まれてもなお、わずかに温かかった。
オリヴァーはすぐに言った。
「その花も、記録とサンプルに加えよう」
「はい」
「ただし、保存は白石布で。直接、他の媒介と一緒にしない」
「分かりました」
ミラは、花を祈るように白石布へ包んだ。
午後、空き家ではサンプルの整理が行われた。
祠の水。
水車軸から外した黒い木札。
黒糸の灰。
祠下から押し出された黒い銅片。
白花が流れた水滴を吸わせた白石布。
患者三人の回復記録。
水車の媒介除去前後の反応写し。
祠の古い刻線の写し。
そして、エリオットの右手の共鳴記録。
最後のものだけは、オリヴァーが別封にした。
「これはライヘルへ直接送る。経路も分ける」
エリオットは頷いた。
「俺の右手のことは、外には出さない方がいい」
「そうだね。今はまだ、見せる段階ではない」
ミラはエリオットの右手を見た。
補助具の中に収められた手は、外からは何も変わっていないように見える。
けれど、今朝の確認で、薬指と小指だけでなく、手のひらにも微かな感覚が残っていることが分かった。昨日、ミラがふらついた瞬間、補助具の中で布を押さえた感触も、わずかに残っている。
大きな進展だった。
だからこそ、外へ漏らしてはいけない。
ダリオが窓の外を確認しながら言う。
「密偵はまだ村にいる。だが、昨日の祠の騒ぎでこちらの細かい動きまでは見えていない」
「今後もついてくると思いますか」
ミラが尋ねると、ダリオは短く答えた。
「来るだろうな」
エリオットも静かに頷く。
「右腕だけでなく、ミラも見るようになるはずだ」
ミラは目を伏せた。
サリアで起きたことは、もう隠せない。
村人も役人も見た。
祠が応え、水が澄み、患者が回復した。
それは希望であると同時に、敵にとっては危険な知らせでもある。




