祠の声 3
同じ瞬間、エリオットの右腕に熱が走った。
今度は、手首だけではない。
薬指。
小指。
手のひら。
失われていた場所に、次々と感覚の灯がともる。
彼は息を詰めた。
右手が、重い。
右手が、ある。
動かしてはいけない。
見せてはいけない。
そう思ったのに、ミラがふらついた。
光が収まり、彼女の膝が崩れかける。
エリオットは咄嗟に左手を伸ばした。
同時に、右手がわずかに動いた。
握ったわけではない。
支えたわけでもない。
けれど、補助具の中で右手の指先が、布を押さえた。
ほんの一瞬。
自分の意思で。
エリオットは息を止めた。
その動きは、ダリオが前に立っていたおかげで、外側の密偵からは見えなかった。
エリオットはすぐに右手を動かさず、左手だけでミラを支える。
「ミラ」
「……大丈夫、です」
「座れ」
「はい」
今度は逆らわなかった。
オリヴァーもすぐに駆け寄る。
「顔色は?」
「少し、力が抜けました。でも、黒を掴んではいません」
「よくやった」
その声には、父としての安堵と、職人としての驚きが混じっていた。
ミラは祠の水を見た。
澄んでいる。
まだ完全ではないかもしれない。けれど、さっきまでの閉じ込められたような重さは消えていた。
リーナが村の方から走ってきた。
「熱が……!」
息を切らしている。
「三人とも、熱が下がり始めた。さっきまで戻りかけていた老人も、汗をかいてる」
村人たちのざわめきが大きくなる。
「白花の治療師だ」
「祠が応えた」
「水が澄んだ」
「女神様の……」
役人が顔を青ざめさせて叫んだ。
「黙れ! 不審な術式だ! 記録を――」
「記録してください」
オリヴァーが静かに言った。
「祠に触れず、水源を掘らず、黒い銅片が水に押し出されました。白石布で回収。祠の水の濁りが薄れ、患者の熱低下が確認された。すべて、監視役の目の前で起きました」
エリオットも、左手で記録帳を開いた。
「発言も記録します。現地役人は、これを不審な術式と主張」
役人は震えていた。
怒りか、恐怖か。
もはや彼自身にも分からないのだろう。
彼らは監視していた。
白い噂を抑えるために。
だが、その監視が、白花の力の証人を増やしてしまった。
祠の処置の後、オリヴァーはすぐにサンプルを採った。
祠の水。
媒介解除前後の反応写し。
黒い銅片と黒糸の灰。
祠の石組みに残る古い刻線の写し。
白花が流れた水滴を吸わせた白石布。
患者の薬草茶の変化記録。
そして、エリオットの右手の共鳴記録。
ただし、最後の記録だけは別に封じた。
「これはライヘル宛てだけに送る」
オリヴァーは低く言った。
「王都側へ広く出す資料には入れない」
ミラは少し不安そうに尋ねた。
「兄さんに、私のことを調べてもらうんですか」
オリヴァーは手を止めた。
そして、娘をまっすぐに見た。
「君を調べるためじゃない。君を守るために、何が起きているのか知らなければならない」
ミラは何も言えなかった。
エリオットが静かに言う。
「俺の右手の記録も、必要です。ミラの力と同時に反応しているなら、隠していては判断を誤る」
「……でも」
「見せる相手を選ぶだけだ」
彼はそう言った。
今朝、オリヴァーが彼に言った言葉と同じだった。
ミラはゆっくり頷いた。
「分かりました」
その夜、サリア水車村の水車は軽く回っていた。
ごとり、ごとり。
昨日までの重さは、もうない。
村人たちは祠へ花を供え、患者の家では安堵の泣き声が聞こえた。
だが、空き家の中は静かだった。
ミラは疲れて眠っている。
オリヴァーはサンプルを封じている。
ロアンは記録を清書している。
ダリオは外で、剣を知る密偵の気配を見ている。
エリオットは、窓のない小部屋で右手を見下ろしていた。
ミラとオリヴァーの前だけで、短く確認した。
薬指と小指の感覚は残っている。
手のひらには、布を押さえた感触がかすかに残っていた。
右手で、ほんの一瞬だけ、布を押さえた。
それだけだ。
剣を握るには遠い。
それでも、彼にとっては大きすぎる一歩だった。
「追加確認は禁止です」
ミラは眠る前、弱い声でそう言った。
エリオットは小さく笑った。
「分かっている」
本当に、分かっていた。
戻りかけたものを、壊してはいけない。
守るために、待つ。
それを覚えた手は、ゆっくりと、しかし確かに戻り始めていた。




