祠の声 1
水車の黒糸を切った翌朝、サリア水車村の水音は少し変わっていた。
昨日まで、水車の輪は重く沈むように回っていた。
ごとり、ごとり、と同じ場所へ戻されるような音。
けれど今朝は違う。
水が落ちる音の奥に、細く澄んだ響きが混じっている。まだ完全ではない。どこかで濁りが残っている。それでも、閉じ込められていた輪の一部が開いたのだと、ミラには分かった。
最初に診た男の子の熱は、夜のうちに大きく下がっていた。
「汗をかいて、朝まで眠れたんです」
母親は涙ぐみながら言った。
ミラは男の子の手首に触れ、体内の白い流れを見る。
喉から胸へ向かう流れは、昨日よりずっとまっすぐだった。けれど完全には戻っていない。流れの奥、もっと深いところで、まだ細く黒い筋が引いている。
「よくなっています。でも、まだ少し引っぱられています」
ミラは静かに言った。
「水車の媒介は切れた。けれど、祠の下の水源にまだ残っているものがあるのかもしれません」
母親の顔が不安に曇る。
リーナが険しい顔で頷いた。
「やっぱり、祠かい」
その言葉に、壁際の監視役がすぐに反応した。
「祠への接近は禁止だ」
エリオットは、すでに記録帳を開いていた。
「水車軸の媒介除去後、患者の熱は低下。しかし白流の深部に歪みが残存。治療師は祠下の水源確認を提案。監視役は接近禁止を主張」
「だから、まだ主張とは――」
「では、許可しますか」
エリオットの声は淡々としていた。
監視役は黙り込む。
リーナは小さく息を吐いた。
「この村で、祠の水源を見ずに水の異常を語るなんて無理だよ」
午前のうちに、村長マルコが空き家へ来た。
彼は昨日よりもさらに疲れて見えた。男爵側からの圧力は強まっているのだろう。それでも、彼の声は揺れなかった。
「祠の下の石組みを確認したい」
マルコは言った。
「村長として、水源の安全確認を求めます」
オリヴァーは机に広げた水路図を見つめていた。
「水車軸の媒介は切りました。けれど、患者の流れと祠水の反応にはまだ歪みが残っています。水源側にも媒介、あるいは古い流れを塞ぐものがある可能性が高い」
ミラは黙って聞いていた。
昨夜、また夢を見た。
水面に白い花が浮かび、祠の下から声がした。
――まだ、届きません。
――石の下に、忘れられた道があります。
――閉じた輪を開いても、源が濁れば水は迷います。
それは助けを求める声だった。
優しいのに、苦しそうな声。
ミラは、自分が何を聞いているのかまだ分からない。けれど、あれがただの夢でないことだけは、もう否定できなかった。
オリヴァーがミラとエリオットを見た。
「二人に話しておきたいことがある」
部屋の空気が変わった。
ロアンは筆を止め、ダリオは入口へ視線を向けた。外に誰もいないことを確認して、静かに扉を閉める。
オリヴァーは言葉を選びながら続けた。
「ライヘルが調べている古い伝承と、ミラの力には重なる点がある」
ミラは息を止めた。
「私の力と……伝承?」
「まだ断定はできない。ライヘルも、私も、軽々しく結論を出すつもりはない。ただ、サリアの白花、水、祠、病を鎮める女神の記録。それからエリオット君の村に残っていた治癒の女神の伝承。そこに似た要素が多い」
エリオットの表情が硬くなる。
オリヴァーはすぐに彼へ視線を向けた。
「エリオット君。君が原因だと言っているわけではない」
先に言われ、エリオットは言葉を失った。
「君の腕を治そうとしたから、ミラがこうなったのではない。君とミラの力が、同じ黒いものに抗う形で響いている。そう考えた方が近い」
ミラは胸元の白花を握った。
「私は……何か特別なものなんでしょうか」
「特別かどうかは、まだ分からない」
オリヴァーは穏やかに答えた。
「ただ、君は今までの治療魔法とは違うものを見ている。人の傷だけじゃなく、土地や水が戻ろうとする流れを見ている。だから怖がらなくていい。でも、背負いすぎてはいけない」
ミラは唇を噛んだ。
怖い。
けれど、逃げたいわけではなかった。
サリアの水は苦しんでいる。患者たちも苦しんでいる。祠の下から届く声も、助けを求めている。
「……私は、何をすればいいですか」
「黒を掴まないこと」
オリヴァーは言った。
「夢で聞いた通りに。流れが戻る道を見る。私は媒介を探し、切れるなら切る。エリオット君は君を止める。ダリオは外を見る。ロアンは記録する。君一人で奇跡を起こす必要はない」
エリオットが静かに頷いた。
「俺も、そう思う」
ミラは二人を見た。
父と、相棒。
その言葉で、胸の奥の震えが少しだけ落ち着いた。




