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水車の黒糸 3

 作業は、レーンの命令痕解除に似ていた。

 ただし相手は人ではなく、水。

 ミラは水車の流れを見る。

 祠から来る白い水の筋が、黒い糸に引かれ、閉じた輪へ戻されている。その輪を無理に断ち切るのではなく、外へ流れる道を照らす。

 水は、流れを思い出せば自ら澄む。

 ミラは手を伸ばさない。

 白花の光だけを、水面に落とす。

 白い筋が、水車の輪を半周し、軸の下へ差し込む。

 黒い木札が、微かに震えた。

「今です」

 ミラが言う。

 オリヴァーが遮断輪を木札と黒糸の間へ差し込む。

 ぱちん、と小さな音がした。

 黒糸の一部が切れる。

 その瞬間、水車が大きく軋んだ。

 ごとり、ではなく、がたり、と重い音。

 ミラの胸元の白花が強く光る。

 閉じた輪が、暴れようとする。

「ミラ!」

 エリオットの声が飛ぶ。

「大丈夫です!」

 ミラは黒いものを押さえない。

 水が外へ流れる道だけを見る。

 白い花が水路の上を流れた。

 一輪。

 二輪。

 誰も投げ入れていないはずの白い花が、祠の方からゆっくりと流れてくる。

 ネリアが震える声で呟いた。

「女神様……」

 村人たちが息を呑む。

 役人たちも、見ていた。

 白い花が水車の下を通るたび、濁っていた水がわずかに澄んでいく。

 オリヴァーは二度目の切断を行った。

 黒い木札と軸を結んでいた最後の糸が、ほどける。

 木札は水に落ちる前に、ロアンが白石布で受け止めた。

 水車の音が変わった。

 ごとり。

 軽い音。

 続いて、もう一度。

 ごとり。

 水が、流れ始めた。

     

 その場にいた全員が、しばらく言葉を失っていた。

 水車は変わらず回っている。けれど、さきほどまであった重い引っかかりが消えている。

 水路の水は、完全に澄んだわけではない。

 だが、白い筋がまっすぐ村の方へ伸びていた。

 ミラは息を吐いた。

 足元がふらつく。

 エリオットが左手で支えようとしたが、右腕が熱に反応して一瞬だけ動きそうになる。

 彼は咄嗟に右手を押さえた。

 その代わり、ダリオが一歩早くミラの反対側に立つ。

「座らせろ」

 エリオットは頷いた。

 ミラは水車小屋の壁際に座らされる。

「使いすぎましたか?」

「少し」

 オリヴァーがすぐに水袋を渡す。

「でも、止めるほどではなかった。よく黒を掴まなかったね」

「夢で、掬ってはいけないって言われたので」

 その言葉に、ネリアが深く頭を垂れた。

 村人たちも、ざわめきながら白い花が流れた水路を見つめている。

 リーナが駆けてきた。

「ミラさん! さっきの子、熱が下がってきたって!」

 ミラは顔を上げた。

「本当に?」

「母親が走って知らせに来た。さっきまで熱っぽかったのに、汗をかいて眠ったって」

 村人たちのざわめきが大きくなる。

 役人が慌てて叫んだ。

「偶然だ!」

 しかし、その声は空しく響いた。

 水が澄み始めた。

 水車の音が軽くなった。

 患者の熱が下がった。

 その場にいた者たちは、すべてを見ていた。

 監視役も、記録していた。

 エリオットが静かに言った。

「偶然だと主張するなら、それも記録しましょう」

 役人は顔を歪めた。

     

 黒い木札は、白石布と遮断箱に封じられた。

 オリヴァーはそれを確認しながら、低く言った。

「これはレーンの命令痕の媒介より、調整が細かい」

「誰かが最近、手を入れた?」

 ロアンが尋ねる。

「おそらく」

 オリヴァーは木札の端に残る黒蜜跡を見た。

「置いて終わりの種ではない。水車の回転に合わせて、歪みを調整している。つまり、これを扱える者が近くにいた可能性が高い」

 ミラは胸元の白花を握った。

 水車の媒介は切れた。

 でも、まだ祠の下の水源が残っている。

 夢の声は、まだ完全には遠ざかっていない。

 ――私の声は、濁りの向こうへ届きません。

 水車の輪は開いた。

 けれど、声の先にはまだ黒い濁りがある。

     

 その夜、現地役人の報告はローヴェル男爵へ送られた。

 文面は混乱していた。

 ――水車軸に不審な黒木札および黒糸を発見。

 ――外部職人が除去。

 ――除去時、白花反応あり。

 ――村人多数が目撃。

 ――患者一名の熱低下を確認。

 ――治療師の白い術式については引き続き監視。

 男爵はその報告を読み、顔色を変えた。

 そして王都のベルトランの元へ届いた時、ベルトランはしばらく一言も発しなかった。

 やがて、彼は紙を机に叩きつけた。

「監視が、証人を増やしてどうする」

 声は低く、怒りで震えていた。

 白い噂を抑えるための役人たちが、白い噂を現実として記録してしまった。

 それも村人の前で。

 ベルトランは窓の外を睨む。

「祠へは近づけるな」

 彼は側近に命じた。

「水車程度ならまだ押さえられる。だが祠で何かが起これば、もう噂では済まない」

     

 同じ頃、黒い研究室では、セヴランが水晶盤を眺めていた。

 サリア水車村を示す黒い線の一部が、白く断たれている。

 水車の媒介。

 切られた。

 研究員が緊張した声で言う。

「先生、水車軸の媒介が失効しました」

 セヴランは黙っていた。

 しばらくして、微笑む。

「黒を掴まなかった」

「はい?」

「白花は、黒を壊そうとはしなかった。流れの道を照らし、職人が糸を切った」

 セヴランの指が、水晶盤の白い筋をなぞる。

「なるほど。面白い」

 その声は楽しげだった。

 けれど、ほんの少しだけ冷たかった。

「ただの治療師ではありませんね。土地の流れ、水の巡り、人の魔力路。すべてを“戻る道”として見ている」

 研究員は黙っていた。

 セヴランは、水晶盤の端にある別の反応へ目を向ける。

 そこには、サリア近くの小さな黒点があった。

 まだ動かしていない、理解できる駒。

「もう少し見ましょう」

 彼は静かに言った。

「祠の下まで届くかどうか」

 水晶盤の上で、白い光と黒い線が、静かに絡み合っていた。


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