水車の黒糸 2
水車小屋裏は、村の中でもひときわ涼しかった。
水路を通って落ちる水が大きな輪を回し、木の軸が低く鳴っている。陽射しは差し込むが、水しぶきが細かな霧になって肌に触れた。
夏の光。
冷たい水。
重い軸音。
ごとり、ごとり。
近くで聞くと、その音には確かに異物感があった。
ただ重いのではない。
一回転ごとに、何かを引きずっている。
ネリアが眉をしかめる。
「やっぱり変だね。こんな音じゃなかった。水車はもっと軽く回るものだよ」
オリヴァーは軸の周辺を見た。
古い木材。
水を受ける輪。
軸を支える石台。
その奥に、細い水路が伸びている。
「触っても?」
役人が睨む。
「点検の範囲だ」
マルコが先に言った。
オリヴァーは手袋をはめ、軸そのものではなく、軸を支える石台の側面へ反応針を近づけた。
針先が薄く曇る。
ロアンが息を呑んだ。
「黒変手前です」
ミラも見た。
水車の軸そのものに黒いものが巻きついているわけではない。
軸の内側、木材と石台の隙間。
そこから黒い糸のような流れが伸び、水が落ちるたびに祠下の水路へ微かな歪みを返している。
「……夢で見た場所と同じです」
ミラは小さく言った。
エリオットがすぐに近づく。
「記録できるか」
「できます。でも、強いです」
「近づきすぎるな」
「はい」
ミラは水車に触れず、白花の光をほんの細く灯した。
水の流れを追う。
祠から湧いた清い水が、水路を通り、水車の輪へ落ちる。
本来なら、そのまま村の中へ巡るはずの水。
けれど、軸の隙間にある黒い媒介が、流れを閉じた輪へ押し戻している。
巡りではない。
閉じ込められた回転。
「閉じた輪……」
ミラは夢の言葉を呟いた。
「水が巡っているんじゃありません。同じところに戻されているんです」
役人が苛立つ。
「また不審な言葉を」
オリヴァーが遮った。
「職人の言葉で言えば、水車の回転と水路の流れに外部媒介の干渉があります。軸の支え部分に何かが差し込まれている可能性が高い」
「そんなものはない」
「確認する前から断言するのですか」
オリヴァーの声は穏やかだった。
だが、逃げ道を塞ぐ声でもあった。
「水利監察であるなら、異物の有無は確認すべきでしょう」
マルコも頷く。
「水車番としても、軸の異音を放置できません」
ネリアが言った。
「これは村の水車だ。役人さん、あんたらの面子のために壊されちゃ困る」
役人の顔がさらに赤くなる。
しかし、村人たちの前で水車の異音確認を拒むことはできなかった。
「……軸を外すな。隙間を見るだけだ」
オリヴァーは頷いた。
「十分です」
軸の支え部分を少しだけ浮かせる作業は、ネリアと粉挽き職人たちが行った。
オリヴァーは指示するだけ。
外部者が水車を勝手にいじったと言われないためだ。
エリオットはミラの半歩後ろに立ちながら、周囲を見ていた。
役人。
監視役。
村人。
そして、水車小屋の外れにいる剣を知る密偵。
密偵の視線は、やはりミラではなくエリオットの右腕へ流れる。
ダリオがさりげなく位置を変え、その視線を遮った。
エリオットは小さく息を吐く。
右腕の熱は、また強くなっている。
水車の媒介に近づいたことで、何かが共鳴しているのだ。
動かさない。
見せない。
報告する。
彼は左手で杖を握り直した。
水車の軸がほんの少し浮く。
その隙間から、黒く濡れた木片が見えた。
小さな木札。
黒い蜜蝋のようなものが塗られ、細い黒糸で軸の内側へ結びつけられている。
リーナが息を呑んだ。
「何だい、あれは」
ネリアの顔が険しくなる。
「村の水車に、あんなものは使わない」
オリヴァーは反応針を近づけた。
針先が黒く染まる。
「媒介です」
その言葉に、役人が反射的に怒鳴った。
「勝手な断定をするな!」
オリヴァーは役人を見た。
「では、あなた方の監察では、これを何と記録しますか。村の水車軸に、村人が知らない黒い木札と黒糸が仕込まれている。反応針は黒変。患者の症状と水の異常がある。この状況で、無関係と断定しますか」
役人は言葉を失った。
村人たちはざわめいている。
「誰が入れた」
「いつからだ」
「これのせいで子どもが熱を?」
「役人は知っていたのか?」
ざわめきは、疑いへ変わっていく。
ミラは木札を見つめた。
黒い糸。
レーンの命令痕で見たものと似ている。
人に命令を結びつけた糸。
今度は水の巡りを閉じ込めている。
「父さん」
「分かっている」
オリヴァーは遮断輪を取り出した。
「切れる。ただし順番を間違えると、黒い反応が下流へ流れる」
ミラは頷いた。
「私は、戻る道を照らします。黒は掬いません」
「そうだ」
エリオットが低く言った。
「ミラ、光が強くなりすぎたら止める」
「はい」
役人が叫ぶ。
「何をする気だ!」
オリヴァーは冷静に答えた。
「異物を取り外し、水車の流れを確認します。水利監察の目の前で行います。記録してください」
監視役たちは、青ざめながらも記録を取るしかなかった。




