水車の黒糸 1
サリア水車村の朝は、夏の匂いがした。
陽射しはまだ高くないのに、石畳にはすでに白い光が落ちている。けれど村を縫う水路からは冷えた風が立ち上り、水車が回るたびに細かな水しぶきが空気を湿らせた。
ごとり、ごとり。
水車の音は、今日も変わらず響いている。
けれどミラには、その音が昨日とは少し違って聞こえた。
回っている。
巡っている。
でも、どこかで引っかかっている。
同じ場所へ戻されるような、重い音。
「眠れたか」
エリオットの声に、ミラは記録帳から顔を上げた。
「少しだけです」
「夢は?」
「見ました」
ミラは筆を握り直す。
「昨日より、はっきりしていました。祠の水と、水車の軸が見えました。黒い糸みたいなものが、軸に巻きついていて……水が同じところを回っていました」
エリオットの表情がわずかに険しくなる。
「女神らしき声は」
「聞こえました。『閉じた輪は流れではありません』って」
その言葉を口にすると、胸元の白花のペンダントがかすかに温かくなった。
エリオットは視線を落とし、それから静かに言った。
「俺からも報告がある」
ミラはすぐに立ち上がりかけた。
「右手ですか?」
「ああ。薬指は昨日よりはっきりしている。小指の圧も残っている。夜中に少し強くなった」
「動かしましたか?」
「動かしていない」
「本当に?」
「本当に」
いつものやり取りに、部屋の端で反応写しを整理していたロアンが小さく笑った。
けれど、オリヴァーは笑わなかった。
「確認はここで済ませよう。窓の布は下ろす」
ダリオも入口から顔を出した。
「外は俺が見る。密偵はまだ村にいる」
ミラの手が止まる。
剣を知る密偵。
誰の手の者かは分からない。
けれど、エリオットの右腕を見ている。
それだけは確かだった。
「ミラ」
エリオットが静かに言う。
「不安になる必要はない。ただ、見せる相手を選ぶ」
「……はい」
ミラは頷き、白花の光を細く灯した。
右腕の補助具の隙間から、流れを見る。
黒い封じはまだ深い。
手首から前腕へ、硬く絡みついている。
けれど、その中で白い流れが確かに太くなっていた。
薬指へ向かう流れは、昨日より輪郭がはっきりしている。小指側には、小さな白い点が二つ、暗い水底の星のように灯っていた。
「第五流……小指側の白点が増えています」
ミラは息を詰めた。
「まだ動きません。触覚でもありません。でも、圧の感覚が出るのは、この白い流れが戻ろうとしているからだと思います」
エリオットは右手を見下ろした。
動かない手。
だが、戻ろうとしている手。
「記録だけにしましょう」
ミラは自分に言い聞かせるように言った。
「追加確認はしません。今日は水車の方を優先します」
「分かった」
エリオットは短く答えた。
その声に、焦りはなかった。
以前なら、戻りかけた感覚に縋っていたかもしれない。けれど今の彼は、戻るものを守るために待つことを覚えていた。
水車小屋裏へ近づく理由は、午前の診療で作られた。
昨日診た三人の患者は、全員少し落ち着いていた。だが、夜になると症状が戻りかけたという。
特に粉挽き職人の老人は、夜半に水車の音が強く響いた頃、喉の重さが戻ったらしい。
「水車が重い音を立てる晩は、熱が戻りやすい」
リーナが証言した。
「昔はそんなことなかった。ここ数日だよ。軸の鳴り方も変だって、粉挽きたちも言ってる」
村長マルコは、その言葉を聞いて役人へ向き直った。
「水車の軸に異常があるなら、水利監察としても確認すべきでしょう」
役人の顔は、朝からずっと険しい。
男爵から叱責を受けたのだろう。昨日よりも神経質になっており、ミラが少し動くだけで目を光らせる。
「外部者に水車小屋裏へ近づかせることは認められない」
予想通りの返答だった。
オリヴァーが穏やかに言う。
「水車を分解するとは言っていません。外側から軸の異音と水路の流れを確認するだけです」
「それも認められない」
エリオットが記録帳を開く。
「水車の異音と患者症状の関係について、薬草師および村長が確認を求めた。監察役は水利設備の確認を拒否」
「待て!」
役人が苛立って声を上げる。
「拒否とは言っていない」
「では確認を許可しますか」
エリオットは淡々と返した。
役人は歯を食いしばる。
村人たちも見ていた。
粉挽き職人たち。
水車番ネリア。
患者の家族。
薬草師リーナ。
村長マルコ。
ここで水車確認を拒み、その後また患者が悪化すれば、役人側の責任になる。
「……水車の点検のみだ」
役人は絞り出すように言った。
「祠には近づくな。水源には触れるな。水車小屋裏へ入るのは、水車番、村長、薬草師、治療師、職人、退役騎士、それと監視二名まで。余計な行為は禁じる」
「承知しました」
オリヴァーが頭を下げる。
エリオットは条件を記録した。
ミラは胸元の白花に触れた。
昨日の夢が、また水音と一緒に胸の奥で揺れる。
――開いてください。
――水が、戻る道を。




