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祠へ向かう理由 3

 その瞬間、エリオットの右腕が熱を持った。

 補助具の中で薬指がさらに強く存在を示す。

 小指の奥にあった圧が、ひとつ深くなる。

 痛みはない。

 だが、右手全体に、忘れていた重さが戻る。

 エリオットは顔には出さなかった。

 今、この場で右手の変化を見せるわけにはいかない。

 彼は左手で杖を握り直し、ミラの半歩後ろに立ち続けた。

 ダリオが少し離れた場所で、さりげなく粉袋の男――剣を知る密偵の視線を遮っている。

 その男は、今の水の反応よりも、エリオットの右腕を見ようとしていた。

 ダリオはあえて、その視線の前に立った。

 剣の柄に左手を置き、こちらも武人であると示す。

 密偵の目が細くなる。

 だが、エリオットの右手は見えない。

     

 ネリアは汲んだ水を木椀に入れ、白花を浮かべたままリーナへ渡した。

「薬草小屋へ持っていくよ」

 リーナが頷く。

「熱冷ましの薬に使う。ただし、治療師さんと職人さんに確認してもらってからだ」

 役人が怒鳴る。

「祠の水を使うな!」

 マルコ村長が静かに振り返った。

「昔からの治療習慣です。あなたがそれを禁じるなら、禁じた理由と責任者名を記録に残します」

 役人の喉が動いた。

 また責任。

 また記録。

 彼はそれを嫌がっている。

 けれど、これ以上の強硬な拒否は、村人の前では難しい。

「……薬草小屋で確認するだけだ。水場への再接近は禁止する」

 絞り出すような声だった。

 オリヴァーは頭を下げた。

「承知しました」

 しかし、その目はもう祠ではなく、水車小屋の軸の方を見ていた。

 ミラが感じた黒い引き。

 祠の水を曲げる糸は、水車小屋の方へ伸びている。

 次に確認すべきものは、はっきりした。

     

 薬草小屋へ戻ると、リーナは祠の水、井戸水、昨日の薬草茶を並べた。

 ミラは祠の水に手をかざす。

 今度は昨日より分かりやすかった。

 白い花が浮いた祠の水には、まだ黒い癖がある。だが、さっき水面に白い光が走った部分だけ、細い道ができている。

「完全ではありません。でも、少しだけ戻っています」

「薬に使えるかい?」

 リーナが聞く。

「薄めれば使えると思います。ただし、今は井戸水と混ぜてください。祠の水だけだと、まだ流れが曲がるかもしれません」

 オリヴァーが小瓶を取り出した。

「反応写しを取る。祠の水、井戸水、混合水の三つ。役人殿、記録してください。治療上の比較です」

 役人は苦々しい顔で監視役に合図した。

 監視役が記録を始める。

 彼らはまだ気づいていない。

 自分たちが監視することで、白花の反応と水の変化を公的に残していることに。

 ミラは白い花の浮いた木椀を見つめた。

 夢の声が、また胸の奥で揺れる。

 ――私の声は、濁りの向こうへ届きません。

 ミラは心の中で答えた。

 まだ、全部は分かりません。

 でも、流れは見えました。

     

 その夜、オリヴァーは空き家の机に水車小屋周辺の簡単な図を描いた。

 祠。

 祠下の水路。

 薬草小屋。

 水車小屋。

 水車の軸。

 白花の群生地。

「媒介は水車小屋側にある可能性が高い」

 彼は言った。

「祠の下に直接置かれているなら、祠の水はもっと強く歪むはずだ。でも、ミラが見た黒い引きは水車小屋側へ伸びている」

 エリオットが地図を見ながら言う。

「役人が禁じている場所と一致しますね」

「水場、祠、水車小屋裏」

「つまり、あちらは何かを知っている」

「少なくとも、近づかせてはいけない場所は聞かされている」

 ミラは自分の記録帳を開いた。

「水車小屋の軸に黒糸がある可能性は?」

 オリヴァーは静かに頷いた。

「ある。水車が回るたびに、水路全体へ微弱な歪みを送っているなら、患者の症状が夜に戻る説明にもなる」

「夜……水車の音が強く聞こえるから」

「そして君の夢も」

 ミラは黙った。

 怖い。

 けれど、同時に、道が見えてきている。

 エリオットが低く言った。

「次は、水車小屋裏へ近づく理由を作る必要がある」

「水車の点検でしょうか」

 ロアンが言った。

「水の薬効に影響があるなら、水車の軸や水路の動きも確認しないといけない、という理由なら……」

「村の粉挽きが水車に異音があると言えば、役人は止めにくい」

 オリヴァーが答えた。

 ダリオが外から戻ってきて、短く言った。

「剣を知る密偵は、まだいる。今日は水よりエリオットを見ていた」

 ミラの表情が曇る。

 エリオットはすぐに言った。

「右手の変化は見せていません」

「ダリオさんが遮ってくれました」

 ミラはダリオを見た。

「ありがとうございます」

「礼はいらん。戻りかけを見せるな」

 ダリオはそれだけ言って、壁際に腰を下ろした。

     

 深夜。

 サリア水車村の水車は、変わらず回っていた。

 ごとり、ごとり。

 ミラは眠りに落ちる直前、また水の音を聞いた。

 今度は、はっきりと声が混じる。

 ――白花の娘。

 水面に、白い花が浮かぶ。

 祠の下の水は、黒い糸に絡まれている。

 水車の軸には、黒く濡れた何かが巻きついている。

 その糸が回るたび、水は同じ場所へ戻される。

 ――輪は巡り。巡りは命。

 ――けれど、閉じた輪は流れではありません。

 ミラは夢の中で、水車を見上げた。

 白い花がひとつ、彼女の手元へ流れてくる。

 ――開いてください。

 ――水が、戻る道を。

 その声は、昨日より少し近かった。

 苦しげで、けれど優しい声だった。

     

 隣室で、エリオットは再び目を覚ました。

 右手が熱い。

 今度は薬指だけではない。

 小指の圧が、はっきりしている。

 動かさない。

 エリオットは歯を食いしばり、左手で補助具を押さえた。

 ミラの夢と、サリアの水と、自分の右腕が響いている。

 その事実に、彼は恐怖と希望を同時に覚えた。

 戻っている。

 だが、見られている。

 彼は静かに息を吸った。

 朝になれば、また報告する。

 それが今の自分にできる、一番確かな守り方だった。



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