祠へ向かう理由 1
サリア水車村の朝は、水の音から始まった。
ごとり、ごとり。
木の軸が回り、水が落ち、また受け止められる。
その音は、昨夜ミラが夢の中で聞いたものとよく似ていた。
けれど、夢の中の水車はもっと静かで、もっと遠かった。白い花が幾筋も水面を流れ、顔の見えない女の人の声が、水音に紛れていた。
――私の声は、濁りの向こうへ届きません。
目が覚めても、その声だけが耳の奥に残っている。
ミラは、記録帳の端にその一文を書き足した。
夢。水辺。祠。白い花。
水は道を忘れている。
声は濁りの向こうへ届かない。
戻る道を照らす手。
書きながら、指先が少し震えた。
ただの夢だと思いたかった。
けれど、昨日見た患者たちの白い流れと、橋の下を流れてきた白花の反応が、夢の景色と重なって離れない。
「ミラ」
背後からエリオットの声がした。
ミラは振り返る。
彼は入口のそばに立っていた。右腕はいつも通り補助具に固定されている。外から見れば、昨日と何も変わらない。
でも、ミラは知っている。
薬指の位置感覚が明確になり、小指の奥に小さな圧が灯ったことを。
「顔色は悪くないな」
「眠りは浅かったですけど、大丈夫です」
「大丈夫ではなく?」
ミラは少しだけ口元を緩めた。
「記録できます。診療もできます。ただ、祠の水に近づく時は、止めてください」
「もちろん」
即答だった。
その安心感に、ミラは胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。
朝の診療では、昨日診た三人の容態を確認した。
幼い男の子の熱は、少し下がっていた。井戸水で煎じた薬に替え、ミラが白い流れを整えたおかげだろう。呼吸も昨日より楽になっている。
けれど、完全には戻っていない。
喉から胸へ向かう白い流れは、まだ同じ場所で輪を描こうとしていた。
「戻りかけているけれど、引っぱられています」
ミラは小声で言った。
リーナが眉を寄せる。
「やっぱり、原因が残ってるんだね」
「はい。患者さんの身体だけを整えても、また同じ水や薬草に触れれば戻ってしまうかもしれません」
監視役が壁際で記録を取っている。
ミラは言葉を選んだ。
「治療のために、薬に使う水の出どころを確認する必要があります」
「水場への接近は禁止だ」
監視役がすぐに言った。
その返事を待っていたように、エリオットが記録帳へ書き込む。
「患者の再発防止のため、治療師が原因水の確認を求めた。監視役は水場への接近禁止を理由に拒否」
監視役の顔が引きつった。
「まだ拒否とは言っていない!」
「では、確認を許可しますか」
「それは……役人殿に確認する」
エリオットは静かに頷いた。
「その発言も記録します」
リーナが横で小さく咳払いをした。笑いを堪えたのだと、ミラには分かった。
エリオットの左手の記録は、今や剣よりも強い盾になっている。
午前の終わり頃、村長マルコが空き家を訪れた。
昨日より疲れた顔をしている。
男爵側の役人から、かなり圧をかけられているのだろう。それでも、マルコの目は折れていなかった。
「治療師殿。患者の具合は?」
「少し落ち着いています。でも、原因の水を確認しないと再発する可能性が高いです」
「やはり、祠の下の水路か」
マルコは重く息を吐いた。
オリヴァーが机に広げた地図へ目を向ける。
「昨日の診察と薬の反応を見る限り、祠の下から水車小屋へ続く古い水路、そのどこかで流れが曲げられています」
「曲げられている、か」
「ええ。毒を入れられたというより、薬草の力や身体の流れが、本来の道を取れなくなっている」
マルコはしばらく黙った。
それから、低い声で言った。
「水車番のネリアが、祠の水を汲むと言っています」
ミラは顔を上げた。
「今ですか?」
「昼の祈りの時刻です。昔から、熱を出した者がいる時は、祠の下の水を汲み、白花を浮かべて薬草小屋へ運ぶ習わしがあります」
エリオットの目がわずかに動いた。
「村の通常の習わし、ですね」
「そうです」
マルコは頷いた。
「役人は止めようとするでしょう。だが、これは村の治療習慣です。祠を調べるのではなく、水車番が水を汲む。治療師殿は触れず、薬草師が薬に使う水を確認する」
オリヴァーが静かに言った。
「言葉を間違えなければ、止めにくい」
「ええ」
マルコの表情は苦かった。
「私たちも、言葉で戦うしかありません」
ミラは胸元の白花を握った。
祠へ近づく理由が、できた。
けれどそれは、近づく危険が増えたという意味でもある。




