見られている右手 3
朝の診療は、昨日の男の子から始まった。
熱は少し下がっていた。
夜にぶり返すかもしれないと言っていたが、井戸水で煎じ直した薬が効いたのか、呼吸は昨日より楽そうだった。
「よかった……」
母親が涙ぐむ。
ミラは慎重に首を横に振った。
「まだ油断できません。原因の水の流れを確認しないと、また戻る可能性があります」
監視役がそばで記録している。
ミラはその視線を感じながらも、必要なことだけを言った。
患者の喉元の白い流れは、昨日より少しだけまっすぐになっている。だが、奥にはまだ曲がろうとする癖が残っていた。
夢の言葉が蘇る。
水は、流れを思い出せば自ら澄みます。
患者の身体も同じなのかもしれない。
ミラは白花の光をほんの少しだけ灯し、白い流れが戻る道を照らした。
その瞬間、遠くの水車が、ごとり、と一度だけ大きく鳴った。
胸元の白花が温かくなる。
エリオットの右手も、補助具の中で微かに熱を持った。
彼は動かさない。
ただ、静かに息を整えた。
午前の診療が終わる頃、役人が再び姿を現した。
昨夜の報告が男爵へ届いたのだろう。顔色が悪く、苛立ちを隠せていない。
「治療内容を確認する」
彼は言った。
「すべて記録してあります」
エリオットが左手で記録帳を差し出す。
役人はそれを見て、さらに不機嫌になった。
「白い光を使ったとある」
「治療魔法です」
ミラが答えようとしたが、オリヴァーが一歩先に出た。
「患者の呼吸を整えるための治療行為です。薬草師リーナ殿、患者家族、監視役が立ち会っています」
リーナも頷いた。
「あれで呼吸が楽になった。危険な術じゃない」
役人は歯を食いしばる。
「水場には近づくな」
「近づいていません」
「祠にもだ」
「近づいていません」
「水車小屋裏にも」
その言葉に、エリオットの目が微かに動いた。
水場。
祠。
水車小屋裏。
役人は何度もそこを繰り返す。
恐れている場所を、自分で示しているようなものだった。
オリヴァーも同じことを考えたのだろう。表情は変わらないが、指先が記録紙の端を軽く叩いた。
ミラは何も言わない。
ただ、胸の奥で水車の音を聞いていた。
空き家へ戻る途中、ダリオがさりげなくエリオットの右側へ立った。
粉袋の荷車のそばには、昨日の男がいた。
商人のような顔をしている。
だが、今日も荷を見ていない。
エリオットの足運びを見ている。
ダリオは荷馬車の位置を変えるふりをして、その視線を遮った。
男の目が一瞬、ダリオへ向く。
ダリオはあえて、左手で剣の柄を直した。
武人だと分かる動作。
男の警戒が、わずかにダリオへ移った。
エリオットはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ただ、小さく頭を下げる。
ダリオは見返さずに言った。
「礼は後でいい。右手を隠せ」
「はい」
短い返事。
それで十分だった。
その日の午後、リーナがミラたちを薬草小屋へ案内した。
もちろん監視付きである。
薬草小屋は、水場でも祠でもない。だが、窓の外には水車小屋の屋根が見えた。さらに遠く、白い花が揺れている場所がある。
ミラの胸元が温かくなる。
リーナは棚から薬草束を取り出した。
「祠の水で煎じた時だけ効きが変になる薬草は、これだよ」
オリヴァーが薬草を確認する。
「薬草自体は?」
「悪くありません」
ミラは言った。
「でも、根の先に少しだけ流れの癖があります。祠の水で煎じると、それが強く出るのかもしれません」
監視役が苛立ったように言う。
「また曖昧な」
「曖昧ではない」
エリオットが静かに遮った。
「同じ症状が三名。同じ薬草。祠の水で煎じた場合に悪化。井戸水では軽減。記録としては十分に傾向がある」
監視役は黙った。
リーナが窓の外をちらりと見た。
そこには、白い花が揺れている。
風はなかった。
ミラはその揺れを見て、夢の声を思い出した。
戻る道を照らす手。
だが、まだ触れない。
まだ、祠へは近づけない。
今は、記録する時だ。
その夜、エリオットは空き家の入口で見張りをしていた。
右手の熱は、昼より落ち着いている。
薬指の位置感覚は消えていない。小指の圧も、微かだが残っていた。
焦らない。
動かさない。
報告する。
彼はその三つを、何度も心の中で繰り返した。
外ではダリオが、粉袋の男の位置を確認している。
中ではミラが、夢と診療と水の記録を書いている。
オリヴァーは薬草と水の反応写しを整理している。
それぞれが、それぞれの戦い方をしていた。
サリア水車村はまだ閉じている。
祠も、水場も、水車小屋裏も遠い。
けれど、役人が守ろうとするものがはっきりするほど、そこへ至る道もまた見え始めていた。
水車の音が、ごとり、ごとりと夜に響く。
その音に重なるように、ミラの部屋の白花が淡く光った。
そしてエリオットの右手にも、また微かな熱が灯った。




