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220/224

見られている右手 3

 朝の診療は、昨日の男の子から始まった。

 熱は少し下がっていた。

 夜にぶり返すかもしれないと言っていたが、井戸水で煎じ直した薬が効いたのか、呼吸は昨日より楽そうだった。

「よかった……」

 母親が涙ぐむ。

 ミラは慎重に首を横に振った。

「まだ油断できません。原因の水の流れを確認しないと、また戻る可能性があります」

 監視役がそばで記録している。

 ミラはその視線を感じながらも、必要なことだけを言った。

 患者の喉元の白い流れは、昨日より少しだけまっすぐになっている。だが、奥にはまだ曲がろうとする癖が残っていた。

 夢の言葉が蘇る。

 水は、流れを思い出せば自ら澄みます。

 患者の身体も同じなのかもしれない。

 ミラは白花の光をほんの少しだけ灯し、白い流れが戻る道を照らした。

 その瞬間、遠くの水車が、ごとり、と一度だけ大きく鳴った。

 胸元の白花が温かくなる。

 エリオットの右手も、補助具の中で微かに熱を持った。

 彼は動かさない。

 ただ、静かに息を整えた。

     

 午前の診療が終わる頃、役人が再び姿を現した。

 昨夜の報告が男爵へ届いたのだろう。顔色が悪く、苛立ちを隠せていない。

「治療内容を確認する」

 彼は言った。

「すべて記録してあります」

 エリオットが左手で記録帳を差し出す。

 役人はそれを見て、さらに不機嫌になった。

「白い光を使ったとある」

「治療魔法です」

 ミラが答えようとしたが、オリヴァーが一歩先に出た。

「患者の呼吸を整えるための治療行為です。薬草師リーナ殿、患者家族、監視役が立ち会っています」

 リーナも頷いた。

「あれで呼吸が楽になった。危険な術じゃない」

 役人は歯を食いしばる。

「水場には近づくな」

「近づいていません」

「祠にもだ」

「近づいていません」

「水車小屋裏にも」

 その言葉に、エリオットの目が微かに動いた。

 水場。

 祠。

 水車小屋裏。

 役人は何度もそこを繰り返す。

 恐れている場所を、自分で示しているようなものだった。

 オリヴァーも同じことを考えたのだろう。表情は変わらないが、指先が記録紙の端を軽く叩いた。

 ミラは何も言わない。

 ただ、胸の奥で水車の音を聞いていた。

     

 空き家へ戻る途中、ダリオがさりげなくエリオットの右側へ立った。

 粉袋の荷車のそばには、昨日の男がいた。

 商人のような顔をしている。

 だが、今日も荷を見ていない。

 エリオットの足運びを見ている。

 ダリオは荷馬車の位置を変えるふりをして、その視線を遮った。

 男の目が一瞬、ダリオへ向く。

 ダリオはあえて、左手で剣の柄を直した。

 武人だと分かる動作。

 男の警戒が、わずかにダリオへ移った。

 エリオットはそれに気づいたが、何も言わなかった。

 ただ、小さく頭を下げる。

 ダリオは見返さずに言った。

「礼は後でいい。右手を隠せ」

「はい」

 短い返事。

 それで十分だった。

     

 その日の午後、リーナがミラたちを薬草小屋へ案内した。

 もちろん監視付きである。

 薬草小屋は、水場でも祠でもない。だが、窓の外には水車小屋の屋根が見えた。さらに遠く、白い花が揺れている場所がある。

 ミラの胸元が温かくなる。

 リーナは棚から薬草束を取り出した。

「祠の水で煎じた時だけ効きが変になる薬草は、これだよ」

 オリヴァーが薬草を確認する。

「薬草自体は?」

「悪くありません」

 ミラは言った。

「でも、根の先に少しだけ流れの癖があります。祠の水で煎じると、それが強く出るのかもしれません」

 監視役が苛立ったように言う。

「また曖昧な」

「曖昧ではない」

 エリオットが静かに遮った。

「同じ症状が三名。同じ薬草。祠の水で煎じた場合に悪化。井戸水では軽減。記録としては十分に傾向がある」

 監視役は黙った。

 リーナが窓の外をちらりと見た。

 そこには、白い花が揺れている。

 風はなかった。

 ミラはその揺れを見て、夢の声を思い出した。

 戻る道を照らす手。

 だが、まだ触れない。

 まだ、祠へは近づけない。

 今は、記録する時だ。

     

 その夜、エリオットは空き家の入口で見張りをしていた。

 右手の熱は、昼より落ち着いている。

 薬指の位置感覚は消えていない。小指の圧も、微かだが残っていた。

 焦らない。

 動かさない。

 報告する。

 彼はその三つを、何度も心の中で繰り返した。

 外ではダリオが、粉袋の男の位置を確認している。

 中ではミラが、夢と診療と水の記録を書いている。

 オリヴァーは薬草と水の反応写しを整理している。

 それぞれが、それぞれの戦い方をしていた。

 サリア水車村はまだ閉じている。

 祠も、水場も、水車小屋裏も遠い。

 けれど、役人が守ろうとするものがはっきりするほど、そこへ至る道もまた見え始めていた。

 水車の音が、ごとり、ごとりと夜に響く。

 その音に重なるように、ミラの部屋の白花が淡く光った。

 そしてエリオットの右手にも、また微かな熱が灯った。

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