見られている右手 2
ミラが起きてきたのは、それから少し後だった。
顔色がいつもより白い。
しかし、目は妙に冴えている。
「ミラ」
オリヴァーがすぐに気づいた。
「眠れなかった?」
「夢を見ました」
その一言で、室内の空気が変わった。
ミラは胸元の白花に触れながら、ゆっくり話し始めた。
「水辺にいました。水車があって、祠があって、白い花が流れてきて……顔の見えない女の人の声がしました」
オリヴァーは記録紙を引き寄せる。
エリオットは黙って聞いている。
「黒を掬い上げてはいけません。水は、流れを思い出せば自ら澄みます。あなたの手は、戻る道を照らす手……そう言われました」
ミラの声は震えてはいなかった。
けれど、戸惑いはある。
「兄さんの手紙に、夢も記録するようにと書いてありました。だから、ちゃんと書きます。でも……あれはただの夢なんでしょうか」
オリヴァーはすぐに答えなかった。
今、全てを話すべきではない。
だが、何も言わないのも違う。
「ただの夢とは、言い切れない」
彼は慎重に言った。
「サリアの伝承、水車の音、昨日見た白花。君の力がそれらに反応して、夢という形で整理された可能性がある」
「私の力が……」
「だからこそ、焦ってはいけない。夢で見た通りだ。黒を掬い上げようとしない。戻る流れを見る」
ミラは少しだけ頷いた。
そこへエリオットが静かに言った。
「俺からも報告がある」
ミラはすぐに顔を上げた。
「右手ですか?」
「ああ」
「痛みますか?」
「痛みは三。熱は手首から肘。肩まではない。薬指の位置感覚が昨日よりはっきりしている。小指の奥に圧のようなものがある」
ミラは一瞬、息を止めた。
夢の話で揺れていた表情が、治療師のものへ変わる。
「動かしましたか」
「動かしていない」
「本当に?」
「本当に」
「……よかった」
ミラは深く息を吐いた。
それから、オリヴァーを見た。
「今、診てもいいですか?」
「いい。ただし、ここで。外から見えないようにする」
オリヴァーが窓の布を下ろす。
ダリオは外へ出た。
監視役が不審に思わないよう、入口のそばに立つためだ。
「治療経過の確認だ。余計な奴は入れるな」
そう言って出ていく背中は、ひどく頼もしかった。
診察は短く行われた。
ミラはエリオットの右手に直接触れず、補助具の隙間から白い流れを見る。
昨日まで、薬指の根元へ細く伸びていた白い流れが、少しだけ濃くなっている。
そして小指の奥。
まだ触覚には程遠い。だが、黒い封じの奥に白い点のようなものが灯っていた。
「……あります」
ミラは囁いた。
「小指側にも、白い流れの端が見えます。すごく細いです。でも、消えていません」
エリオットは右手を見下ろした。
動かない手。
だが、死んだ手ではない。
ミラはすぐに記録した。
――第四流、位置感覚明瞭化。
――第五流、圧覚の兆候。白点確認。
――黒い封じは残存。追加確認禁止。
――外部視線あり。確認は室内のみ。
最後の一文を書いたのはオリヴァーだった。
ミラはそれを見て、眉を寄せる。
「外部視線?」
エリオットとオリヴァーが視線を交わす。
隠しきるべきではない。
ただし、必要な範囲だけ。
エリオットが言った。
「役人の監視とは別に、俺を見ている者がいる。右手の回復具合を探っている可能性がある」
ミラの顔が強張った。
「騎士団の?」
「断定はできない。だが、剣を知る者の目だ」
「……だから、窓を閉めたんですね」
「ああ」
オリヴァーが穏やかに補足する。
「右手の回復は希望だけれど、今はまだ切り札でもある。必要な相手には共有する。見せる必要のない相手には見せない。それだけだよ」
ミラはこくりと頷いた。
「分かりました」
その表情には不安があった。
けれど、彼女は取り乱さなかった。
「じゃあ、今日の診療中は、右手を使わないでください」
「使わない」
「荷物も持たないでください」
「分かった」
「ミラを庇う時も、右を出すなって俺が言った」
外から戻ってきたダリオが、扉越しに言った。
ミラは少し驚いて振り返る。
「ダリオさんも?」
「俺は外を見る役だ。右手を見せるな。治っていないと思わせておけ」
エリオットは静かに頷いた。
「そうします」
ミラは、その短いやり取りに何かを感じた。
エリオットが誰かに守られることを、受け入れている。
以前なら、きっともっと苦しそうな顔をしただろう。
けれど今は、必要な役割として受け取っている。
それもまた、戻り始めたものの一つなのかもしれなかった。




