見られている右手 1
夜明け前、サリア水車村はまだ薄い霧の中にあった。
水路の上を白い靄が流れ、水車は眠らぬ獣のように、ごとり、ごとりと回り続けている。空き家の壁越しにも、その音は絶えず響いていた。
エリオットは、寝台の上で目を開けた。
右腕が熱い。
痛みではない。
痺れでもない。
補助具の中で、薬指がはっきりと存在を主張していた。昨日までは“そこにある気がする”程度だったものが、今は指の輪郭をぼんやりなぞれるほどになっている。
さらに、小指の奥。
そこに、ごく微かな圧があった。
触れられているわけではない。動くわけでもない。けれど、長く失われていた場所に、ほんの小さな灯が点いたような感覚だった。
「……」
エリオットは右手を動かさなかった。
動かしたい衝動はあった。
確かめたい。
本当に戻り始めているのか知りたい。
だが、それをして壊すわけにはいかない。
彼は左手で補助具の上から右腕を押さえ、深く息を吐いた。
ミラに報告する。
ただし、すぐに起こすのではない。
この村では、右腕の変化は希望であると同時に、見せてはならない情報でもある。
昨日、粉袋の荷車のそばに立っていた男。
役人でも村人でもない目。
あれは、右腕を見ていた。
廊下へ出ると、入口近くの部屋に明かりが漏れていた。
オリヴァーが起きていた。作業台代わりの机に白石布を敷き、昨夜採取した水の反応写しを見比べている。
「眠れませんでしたか」
エリオットが声をかけると、オリヴァーは顔を上げた。
「少しね。君も?」
「右手に変化があります」
オリヴァーの目つきが変わった。
父親の顔ではなく、職人の顔。
「痛みは?」
「三。熱は手首から肘。肩までは上がっていません」
「感覚は?」
「薬指の位置が昨日よりはっきりしています。小指の奥に、圧のようなものがある」
オリヴァーはすぐに立ち上がった。
「動かした?」
「いいえ」
「偉い」
「ミラにも同じことを言われそうです」
「間違いなく言うね」
少しだけ柔らかな空気が流れた。
しかし、エリオットの表情はすぐに硬くなる。
「ミラには報告します。ただ、この村では見せ方を選ぶ必要があります」
「昨日の視線か」
「はい。役人とは別に、俺の右手を見ている者がいます。剣を知る者の目でした」
オリヴァーは静かに頷いた。
「ダリオにも聞こう」
その時、外の戸が低く叩かれた。
三回。
決めていた合図だった。
エリオットが扉を開けると、外から冷えた朝の空気とともにダリオが入ってきた。
彼は外套の肩に朝露をつけている。夜の間、空き家の外と荷馬車の周辺を見ていたのだ。
「ちょうどいい」
ダリオは二人を見るなり言った。
「あの商人面の男、やっぱり武人だ」
エリオットの目が細くなる。
「粉袋の荷車のそばにいた男ですか」
「ああ。夜明け前に川辺へ出ていた。荷を見るふりをして、空き家の入口とお前の部屋の窓を確認していた」
オリヴァーが低く問う。
「役人側では?」
「違う。役人の連中とは目を合わせない。村人の動線も知らない。だが、足運びは隠せていない」
ダリオは壁に背を預けた。
「腰の重心が剣を持つ者のそれだ。右利き。間合いを見る癖がある。商人なら荷の重さを見る。あいつは人の動きを測っている」
「俺を?」
「お前の右腕と足だ」
短い答え。
エリオットは黙った。
予想していたことではある。だが、同じ武人であるダリオに断言されると重みが違う。
ダリオは続けた。
「役人は治療師と水場を見ている。あの男はお前を見ている。目的が違う」
「騎士団側かもしれません」
「断定はするな。だが、そう考えて動け」
ダリオの声は低い。
「右手のことは見せるな。治っていないと思わせておけ。戻りかけが一番狙われる」
エリオットは頷いた。
「分かっています」
「分かってる奴ほど、咄嗟に出る」
ダリオは淡々と言った。
「だから俺が前に立つ。外では右手を使うな。荷も持つな。ミラを庇う時も、右を出すな。必要なら俺が動く」
エリオットは一瞬、言葉を失った。
元騎士として、守られる側に回ることへの苦さはある。
だが、今ここで意地を張る方が愚かだ。
「……お願いします」
ダリオは短く頷いた。
「それでいい」
オリヴァーが机の上の白石布を畳む。
「右手の確認は、ミラと私の前だけで行う。監視役には治療経過確認とだけ説明する。外部には詳細を出さない」
「記録は?」
エリオットが尋ねる。
「符丁で残す。薬指、小指とは書かず、“第四流”“第五流”とでもしておこう」
「分かりました」
「ミラには朝一番で伝えよう。隠す必要はない。けれど、見せる場所は選ぶ」
エリオットは、ようやく少し息を吐いた。
報告すること。
隠さないこと。
しかし、守るために見せ方を選ぶこと。
それもまた、今の彼らの手順だった。




