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218/224

見られている右手 1

 夜明け前、サリア水車村はまだ薄い霧の中にあった。

 水路の上を白い靄が流れ、水車は眠らぬ獣のように、ごとり、ごとりと回り続けている。空き家の壁越しにも、その音は絶えず響いていた。

 エリオットは、寝台の上で目を開けた。

 右腕が熱い。

 痛みではない。

 痺れでもない。

 補助具の中で、薬指がはっきりと存在を主張していた。昨日までは“そこにある気がする”程度だったものが、今は指の輪郭をぼんやりなぞれるほどになっている。

 さらに、小指の奥。

 そこに、ごく微かな圧があった。

 触れられているわけではない。動くわけでもない。けれど、長く失われていた場所に、ほんの小さな灯が点いたような感覚だった。

「……」

 エリオットは右手を動かさなかった。

 動かしたい衝動はあった。

 確かめたい。

 本当に戻り始めているのか知りたい。

 だが、それをして壊すわけにはいかない。

 彼は左手で補助具の上から右腕を押さえ、深く息を吐いた。

 ミラに報告する。

 ただし、すぐに起こすのではない。

 この村では、右腕の変化は希望であると同時に、見せてはならない情報でもある。

 昨日、粉袋の荷車のそばに立っていた男。

 役人でも村人でもない目。

 あれは、右腕を見ていた。

     

 廊下へ出ると、入口近くの部屋に明かりが漏れていた。

 オリヴァーが起きていた。作業台代わりの机に白石布を敷き、昨夜採取した水の反応写しを見比べている。

「眠れませんでしたか」

 エリオットが声をかけると、オリヴァーは顔を上げた。

「少しね。君も?」

「右手に変化があります」

 オリヴァーの目つきが変わった。

 父親の顔ではなく、職人の顔。

「痛みは?」

「三。熱は手首から肘。肩までは上がっていません」

「感覚は?」

「薬指の位置が昨日よりはっきりしています。小指の奥に、圧のようなものがある」

 オリヴァーはすぐに立ち上がった。

「動かした?」

「いいえ」

「偉い」

「ミラにも同じことを言われそうです」

「間違いなく言うね」

 少しだけ柔らかな空気が流れた。

 しかし、エリオットの表情はすぐに硬くなる。

「ミラには報告します。ただ、この村では見せ方を選ぶ必要があります」

「昨日の視線か」

「はい。役人とは別に、俺の右手を見ている者がいます。剣を知る者の目でした」

 オリヴァーは静かに頷いた。

「ダリオにも聞こう」

 その時、外の戸が低く叩かれた。

 三回。

 決めていた合図だった。

 エリオットが扉を開けると、外から冷えた朝の空気とともにダリオが入ってきた。

 彼は外套の肩に朝露をつけている。夜の間、空き家の外と荷馬車の周辺を見ていたのだ。

「ちょうどいい」

 ダリオは二人を見るなり言った。

「あの商人面の男、やっぱり武人だ」

 エリオットの目が細くなる。

「粉袋の荷車のそばにいた男ですか」

「ああ。夜明け前に川辺へ出ていた。荷を見るふりをして、空き家の入口とお前の部屋の窓を確認していた」

 オリヴァーが低く問う。

「役人側では?」

「違う。役人の連中とは目を合わせない。村人の動線も知らない。だが、足運びは隠せていない」

 ダリオは壁に背を預けた。

「腰の重心が剣を持つ者のそれだ。右利き。間合いを見る癖がある。商人なら荷の重さを見る。あいつは人の動きを測っている」

「俺を?」

「お前の右腕と足だ」

 短い答え。

 エリオットは黙った。

 予想していたことではある。だが、同じ武人であるダリオに断言されると重みが違う。

 ダリオは続けた。

「役人は治療師と水場を見ている。あの男はお前を見ている。目的が違う」

「騎士団側かもしれません」

「断定はするな。だが、そう考えて動け」

 ダリオの声は低い。

「右手のことは見せるな。治っていないと思わせておけ。戻りかけが一番狙われる」

 エリオットは頷いた。

「分かっています」

「分かってる奴ほど、咄嗟に出る」

 ダリオは淡々と言った。

「だから俺が前に立つ。外では右手を使うな。荷も持つな。ミラを庇う時も、右を出すな。必要なら俺が動く」

 エリオットは一瞬、言葉を失った。

 元騎士として、守られる側に回ることへの苦さはある。

 だが、今ここで意地を張る方が愚かだ。

「……お願いします」

 ダリオは短く頷いた。

「それでいい」

 オリヴァーが机の上の白石布を畳む。

「右手の確認は、ミラと私の前だけで行う。監視役には治療経過確認とだけ説明する。外部には詳細を出さない」

「記録は?」

 エリオットが尋ねる。

「符丁で残す。薬指、小指とは書かず、“第四流”“第五流”とでもしておこう」

「分かりました」

「ミラには朝一番で伝えよう。隠す必要はない。けれど、見せる場所は選ぶ」

 エリオットは、ようやく少し息を吐いた。

 報告すること。

 隠さないこと。

 しかし、守るために見せ方を選ぶこと。

 それもまた、今の彼らの手順だった。


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