流れを忘れた水 2
家を出ると、道の端には村人たちが集まっていた。
みな声を潜めている。役人の目を気にしているのだろう。それでも、視線はミラへ向いていた。
期待。
怖いほどの期待だった。
ミラは少しだけ足を止める。
その瞬間、エリオットが半歩近づいた。
「見るのは患者だけでいい」
低い声だった。
「村中の期待を背負うな」
ミラは小さく息を吸った。
「はい」
オリヴァーも隣から言う。
「今は一人目を診ただけだ。奇跡ではなく、記録を積み重ねる」
「分かっています」
父と相棒に挟まれて、ミラはようやく歩き出した。
だが、エリオットの視線は村人たちだけを見ていたわけではなかった。
水路の向こう。
粉袋を積んだ荷車のそばに、商人らしき男が立っている。村人でも役人でもない。視線はミラではなく、エリオットの右腕へ向いていた。
役人の監視とは違う。
村人の好奇心とも違う。
軍の目だった。
隠しているつもりでも、見る場所が違う。歩幅、肩の揺れ、右腕の固定、左手の使い方。そこを測っている。
エリオットは顔には出さなかった。
ただ、オリヴァーが隣に来た時、小さく言った。
「役人の目とは別に、もう一つあります」
オリヴァーの表情は変わらない。
「どちらを見ている?」
「ミラではなく、俺の右手を」
「騎士団か」
「断定はできません。ただ、見る場所が軍のそれです」
「分かった」
オリヴァーは水路を見るふりをしながら、微かに頷いた。
「ミラには今は?」
「治療中は言いません」
「それでいい」
二人目の患者は、粉挽き職人の老人だった。
症状は似ていた。微熱、倦怠感、喉の重さ。祠の水で作った薬を飲むと一時的に楽になるが、夜にまた戻る。
三人目の患者も同じ。
ミラは診察のたびに、体内の白い流れが同じ形に曲げられているのを見た。
黒いものは深くない。
だが、流れの曲がり方が、祠の水路に似ている。
人と水が、同じ癖で歪められている。
「これは偶然ではありません」
夕方、村長マルコの家の一室で、ミラはそう言った。
室内には、ミラ、エリオット、オリヴァー、リーナ、マルコがいた。監視役も壁際に立っている。
役人は別室で報告書を書いているらしい。
「患者さん三人とも、同じように流れが曲がっています。祠の水で煎じた薬と似ています」
マルコは険しい顔で拳を握った。
「やはり、祠の水か」
「水そのものが毒というわけではないと思います。ただ、祠の下から水路へ向かうどこかで、流れが曲げられています」
オリヴァーが続ける。
「水と薬草の比較から見て、原因確認には祠の下の水路か、水車小屋周辺を見る必要があります」
監視役がすぐに言った。
「水場と祠への接近は禁止だ」
「では、その禁止によって原因確認ができないと記録します」
エリオットが淡々と返す。
監視役は黙り込んだ。
マルコが静かに口を開く。
「村長として、患者再発の責任を曖昧にしたくない。水場を守るための監察なら、原因水の確認は必要なはずだ」
「男爵様の許可が」
「許可を待っている間に熱が戻ったら?」
マルコの声は荒くない。
だが、橋の前より強かった。
「こちらは診療を依頼した。治療師は原因確認が必要だと言った。薬草師も同意している。職人も歪みを見ている。それでも拒むなら、拒んだ者の名を記録するしかない」
監視役の顔が引きつる。
ミラは、政治の言葉の重さを感じた。
村長は村人を守るために、同じ「責任」という言葉で役人側へ返している。
誰も剣を抜いていない。
けれど、これは確かに戦いだった。
その日の診療は、そこで終わりになった。
ミラたちは監視付きで、村の外れにある空き家を一晩の宿として与えられた。村内に泊めること自体、役人側は渋ったが、患者の夜間急変に備えるという理由をマルコとリーナが通した。
ただし、水車小屋、祠、祠下の水路には近づかないこと。
それが条件だった。
夜、空き家の窓から水車の音が聞こえた。
ごとり、ごとり。
昼間より深く、胸の奥に沈む音。
ミラは机に向かい、ライヘルの指示通り記録をつけていた。
――橋下の水路。白花反応。水は黒く汚れているのではなく、流れが曲がっている。
――微熱患者三名。白流、喉から胸にかけて水路状に湾曲。
――祠水の薬草茶に同じ癖。井戸水の薬草茶は反応弱。
――水車音に対し、白花の温感あり。
――村人の期待が強い。背負いすぎ注意。
最後の一文を書いたのは、エリオットだった。
ミラはそれを見て少し眉を寄せる。
「そこも記録ですか」
「重要だ」
「研究記録というより、私への注意では」
「同じだ」
オリヴァーが横で頷いた。
「同じだね」
「父さんまで」
ロアンが小さく笑った。
だが、すぐに空気は静かになった。
オリヴァーが窓の外へ目を向ける。
「水車小屋の方に、古い刻線がある」
「見えたんですか?」
「遠目に少しだけ。水路の石組みに、白石系の封印ではない古い刻みがあった。村の伝承と関わっているかもしれない」
ミラは胸元の白花に触れた。
「祠と水車、両方に何かあるんですね」
「おそらく」
エリオットが低く言った。
「そして相手は、そこへ近づかせたくない」
全員が黙った。
役人が過剰に禁じるもの。
祠。
水場。
水車小屋裏。
そこに何かがある。
その夜、ミラはなかなか眠れなかった。
水車の音がずっと聞こえる。
ごとり、ごとり。
水が落ちる音。
木の軸が回る音。
村の中を巡る水路の気配。
目を閉じると、白い花が水面を流れていく光景が浮かぶ。
一輪。
二輪。
いくつもの白い花。
その下で、水が迷っている。
本来ならまっすぐ流れるはずなのに、黒い細い糸に引かれて、同じ場所を回っている。
ミラは夢の中で、水辺に立っていた。
足元には、澄んだ水。
遠くに、水車。
苔むした祠。
白い花。
その向こうに、顔の見えない女性が立っている。
声は、水音に混じるように響いた。
――黒を掬い上げてはいけません。
ミラは息を呑む。
――水は、流れを思い出せば自ら澄みます。
白い花が、ミラの足元へ流れてくる。
――あなたの手は、戻る道を照らす手。
その言葉と同時に、ミラの胸元で白花が強く光った。
隣の部屋で、エリオットは目を覚ました。
右腕が熱い。
痛みではない。
補助具の中で、薬指がはっきりと“ある”。
そして、小指の奥に、かすかな圧が生まれていた。
遠くで水車が回っている。
ごとり、ごとり。
エリオットは左手で右腕を押さえた。
動かさない。
ミラに報告する。
そう決めて、彼は深く息を吐いた。
水車村の夜は、静かに流れを変え始めていた。




